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夜の底のバイオレット

艶やかな魅惑な紫の誘惑


このお題での作品です。



 地下への階段を降りると、そこは時間の止まった水底のようだった。




 重厚なオーク材のカウンターに、琥珀色の間接照明。



氷を削る音だけが、心地よいノイズとして静寂に溶け込んでいる。




 私はグラスの底に残ったウイスキーを揺らしながら、ため息と共に一日の疲労を吐き出した。




 カラン、コロン。




 控えめなベルの音と共に、夜の空気が流れ込む。




 私の隣、一つ空けたスツールに、女性が腰を下ろした。




 ふわり、と。




 濃厚な、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。




 視界の端に映ったのは、艶やかな紫のシルク。




 深くスリットの入ったドレスから覗く白い脚と、細い足首に絡みつくシルバーのストラップ。




 「ブルームーンを」



 ハスキーで、微かに甘さを帯びた声だった。




 バーテンダーが静かに頷き、シェイカーを振る。




 カシャカシャというリズミカルな音と共に、彼女の纏うスミレの香水の匂いが、私のテリトリーへと音もなく浸食してくる。




 差し出されたのは、夜空を液状化したような、妖しくも美しい紫色のカクテルだった。




 グラスの表面についた水滴が、照明を受けて宝石のように煌めいている。




 彼女は細い指でステムを摘み、ゆっくりと口元へ運んだ。




 ルビーレッドの唇が、グラスの縁に触れる。

 ゴクリ、と白い喉が微かに動いた。




 (……美しい)



 赤の情熱と、青の冷静。




 その二つが混ざり合った「紫」という色は、高貴でありながら、底知れない毒を孕んでいるように見えた。




 ふと、彼女が顔を向けた。




 長い睫毛に縁取られた、濡れたような黒い瞳。




 その視線が私を捉え、離さない。




 蛇に睨まれた蛙のように、私は呼吸を忘れた。




 彼女は微かに微笑むと、手元のグラスを、カウンターの木目を滑らせて私の前へと押し出した。




 「……完全なる愛。それとも、叶わぬ恋」



 彼女が唇を離したばかりのグラスの縁を、人差し指でなぞる。




 カクテル言葉。




 それは、退屈な日常を生きる私に向けられた、甘い罠。




 「試してみる?」



 その一言は、呪文のように私の理性を麻痺させた。




 妻の顔、明日の仕事、世間体。



そういった灰色の現実が、スミレの香りに塗り潰されていく。




 これが破滅への入り口だとしても、構わない。




 いや、破滅的だからこそ、惹かれるのだ。




 私は、磁力に引かれるようにグラスに手を伸ばした。




 彼女の指の冷たさが、ガラス越しに伝わってくる。




 傾け、口に含む。




 強烈なスミレの甘い香りが、一気に脳髄を突き抜けた。




 その直後、ベースであるジンの鋭い苦味とアルコールの熱が、喉を焼き切るように落ちていく。




 「……ふふ」



 彼女が、満足げに笑った。




 熱い。




 指先まで、痺れるような快感が巡っていく。

 もはや言葉は不要だった。




 私は残っていた自分のウイスキーを一気に飲み干し、席を立った。




 彼女もまた、紫のドレスの裾を翻して立ち上がる。




 出口へと向かう二人の背後。




 カラン……。




 主を失った紫色のグラスの中で、最後の氷がゆっくりと溶け落ちる音が、水底のようなバーに静かに響いていた。



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