表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
86/94

四月のポルターガイスト

幽霊 ハッピーエンド



 僕の右手は、いとも容易く彼女の背中をすり抜けた。




 何度やっても同じだ。




 空気の層を撫でるような頼りない感覚だけが残り、彼女の震える肩を抱きとめることはできない。




 「……バカ。タカシのバカ」




 膝を抱えてうずくまる彼女の嗚咽が、埃の舞う静かな部屋に響いている。




 僕がトラックにはねられて、今日でちょうど一週間。




 僕の肉体はすでに灰になり、魂だけがこの四畳半のアパートに取り残されていた。




 (泣かないでくれ、ユキ)




 声も届かない。体温も伝わらない。




 生きている時は、いつでも触れられたのに。



いつでも「愛してる」と言えたのに。




 照れくささにかまけて、それを怠っていた生前の自分を、死ぬほど殴り飛ばしたかった。



もう死んでいるけれど。




 カレンダーの「四月七日」の欄に、赤い丸がついている。




 今日は、彼女の誕生日だ。




 彼女はケーキを買うこともなく、真っ暗な部屋で僕の遺影と向き合っている。




 このままでは、彼女はずっと僕の死に縛られ続けてしまう。




 なんとかして、笑ってほしかった。



彼女の笑顔が、僕にとっての太陽だったから。




 僕は部屋を見渡し、ふと、網戸の向こうのベランダに目を止めた。




 ヒビ割れた素焼きのプランター。




 そこに、どこからか飛んできたタンポポが根を下ろし、ふっくらとした綿毛の球体を作っていた。




 (……あれだ)




 幽霊には、重さのあるものは動かせない。




 けれど、あの羽毛のように軽い種子なら。




 僕はベランダに滑り出た。




 両手をプランターに向け、目を閉じる。




 魂の奥底に残ったエネルギーを、指先に集中させる。




 幽霊が物理世界に干渉する――いわゆるポルターガイスト現象は、魂の寿命を著しく削る。




 僕の半透明な足元が、霧のように薄れ始めた。




 (構うもんか。……届け!)




 僕は強く念じた。




 ユキへの愛、後悔、そして未来への祈り。




 そのすべてを、一陣の風に変えて解き放つ。




 フワッ。




 空気が揺らいだ。




 発生した小さなつむじ風が、タンポポの綿毛を一斉に引き剥がす。




 無数の白い羽が、夕陽の差し込む網戸をすり抜け、部屋の中へと舞い込んだ。




 それはまるで、春の雪のようだった。




 黄金色の西日を受けてキラキラと輝きながら、無重力の空間を踊る。




 その中の一つが、ゆっくりと下降し、うずくまる彼女の頬に、音もなく着地した。




 「……え?」



 くすぐったさに、彼女が顔を上げる。




 涙で濡れた瞳に、部屋いっぱいに広がる白い光の粒が映り込んだ。




 彼女は呆然とそれを見つめ、やがて視線をさまよわせる。




 そして、空中に浮かんでいる「僕」のいる場所を、まっすぐに見つめた。




 見えているわけではないはずだ。




 けれど、彼女は確かに、そこに僕がいることを確信していた。




 頬に触れた風の優しさで、誰の仕業か気づいたのだ。




 「……花束のつもり?」



 彼女は、鼻をすすりながら、小さく吹き出した。




 「タカシってば、死んでまでケチなんだから」



 それは、一週間ぶりに彼女が見せた、泣き笑いの顔。




 世界で一番大好きな、くしゃっとした笑顔だった。




 (誕生日おめでとう、ユキ)




 僕の身体はもう限界を迎え、指先から光の粒となって溶け始めている。




 けれど、恐怖も未練もなかった。




 彼女の笑顔が見られた。それだけで、僕の人生は――いや、死後の生は、完璧に満たされたのだから。




 「……ありがとう。私、生きるからね」



 彼女の力強い言葉を背に受けながら、僕は満足げに目を細めた。




 四月の暖かい風が、部屋の中を優しく吹き抜けていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ