灰と光のシンパシー
名探偵コナン
このお題での作品です。
事務所の先輩をモチーフにしています。
カラン、と氷を揺らす音が途切れた。
向かいの席に座るさゆりさんが、グラスを持ったまま、瞬きもせずに私を見つめている。
ジャズの流れる落ち着いたダイニングバー。
普段の彼女なら、涼しげな目で相槌を打ちながら、赤ワインを優雅に傾けている時間だ。
だが、私が何気なく「こないだ、テレビでコナンの映画やってたね」と言った瞬間。
彼女の纏っていたクールな空気が、カチリと音を立てて弾け飛んだ。
「……見たの? 『黒鉄の魚影』」
声のトーンが、半オクターブ上がっている。
さゆりさんはグラスをコースターに置くと、身を乗り出し、テーブルの上で両手を組んだ。
その瞳の奥に、理知的なOLの仮面の下に隠されていた、猛烈な熱量が渦を巻き始めている。
「あ、うん。面白かったよ。アクションすごくて」
「アクション? 違う、そこじゃないわ! あの映画の真髄は、灰原哀という一人の女性の、魂の救済と自立の物語なのよ!」
さゆりさんの声が、バーの喧騒を突き抜けた。
隣の席の客がチラリとこちらを見たが、彼女はもう気づいていない。
「いい? 元々彼女は、闇の中で孤独に震えるサメだった。でも、江戸川コナンという圧倒的な『光』に出会ってしまった。バスジャック事件の時、彼に腕を引かれて炎の中から救い出されたあの日から、彼女の時計は動き出したの!」
さゆりさんの早口が加速していく。
身振りが大きくなり、完璧にセットされていた前髪がハラリと乱れる。
その顔は、営業先の重役を前にした時の完璧な笑顔ではなく、頬を紅潮させた、十代の少女のように無防備なものだった。
「彼女はね、自分を『身を焦がす炎の熱さ』だって言ったのよ。近づけば彼を焼いてしまう。だから距離を置こうとする。でも、コナン君はそんなのお構いなしに、土足で彼女の心に入り込んでくる。……ああっ、もう、蘭ちゃんという太陽がいるのに、なんて残酷な光なの、あの眼鏡は!」
彼女は頭を抱え、天井を仰ぎ見た。
私は圧倒され、口を挟むタイミングを完全に失っていた。
ただ、彼女の口から次々と飛び出す固有名詞と、年号と、深い心理考察の波に飲み込まれるしかなかった。
そこから二十分。
さゆりさんは、バーボンのスパイとしての孤独、ベルモットの歪んだ母性、そして初期から最新刊に至るまでの作画の変遷までを、一息に語り尽くした。
「……だから、彼らの戦いは、黒の組織の壊滅だけじゃない。自分自身の『過去』との戦いなのよ」
はぁ、と深い息を吐き出し、さゆりさんはようやく沈黙した。
胸が激しく上下している。
燃え尽きたような静寂。
私は、すっかりぬるくなったビールを一口飲み、小さく拍手をした。
「……すごい。映画一本で、そこまで深いドラマがあるなんて知らなかった」
私の言葉に、さゆりさんの動きがピタリと止まった。
数秒のタイムラグ。
そして。
シュゥゥゥ。
目に見えるほどの勢いで、彼女の顔から表情が抜け落ち、代わりに耳まで真っ赤に染まった。
「あ、えと……わ、私、なんてことを……!」
さゆりさんは両手で顔を覆い、テーブルに突っ伏してしまった。
指の隙間から、消え入りそうな声が漏れる。
「……ごめんなさい、引いたよね。私、この話になると周りが見えなくなって……いつも後悔するの。……穴があったら入りたい……」
さっきまでの弁舌の嵐が嘘のように、彼女は小さくなっている。
そのギャップが、おかしくて、そしてどうしようもなく愛おしかった。
「引いてないよ。……むしろ、もっと好きになったかも」
「え……?」
さゆりさんが、指の隙間から潤んだ上目遣いで私を見た。
その表情は、どんなミステリーのトリックよりも、私の心を鮮やかに奪っていった。
「続き、聞かせてよ。今度はその、赤井秀一? って人の話」
彼女はもう一度顔を赤くして、小さく「……うん」と頷いた。
バーのBGMが、いつの間にか優しいピアノの旋律に変わっていた。




