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玉座の温度

凍てつく視線と燃え盛る野望


このお題での作品です。



 キィィィン……。




 不快な耳鳴りがすると思ったら、それは空調の音だった。




 地上二百メートル。



最新鋭のオフィスビルの最上階は、一年中、死体安置所のように温度管理が徹底されている。




 私は、湿った掌をズボンの腿で拭い、目の前の男を見据えた。




 広大なマホガニーのデスクの向こう。




 この巨大コングロマリットの頂点に君臨する男、堂島が、万年筆を走らせている。




 白髪交じりの髪。



表情筋が死滅したかのような能面。




 「……話というのは、それか」



 堂島が顔も上げずに言った。




 その声は、薄い氷を割ったように低く、冷たい。




 私は胸ポケットから、一枚の封筒を取り出し、デスクの上に叩きつけた。




 バシッ。




 乾いた音が、静寂に風穴を開ける。




 「解任動議です。明日の臨時取締役会で、過半数の賛成が得られる手はずになっています」



 私の心臓は、早鐘を打っていた。




 血が沸騰している。




 十年だ。



この男の影として、泥水をすすり、汚れ仕事をこなし、這いつくばってきた十年。




 その屈辱と渇望が、今、巨大な炎となって私の全身を突き動かしている。




 見ろ。




 驚愕しろ。




 激昂しろ。




 「貴様、裏切ったな」と叫んで掴みかかってこい。




 そうすれば私も、この煮えたぎる野心を、拳に乗せて叩きつけてやれる。




 しかし。




 堂島の手が止まり、ゆっくりと顔が上がった。




 その瞳と目が合った瞬間、私は背筋に冷水を浴びせられたような感覚に陥った。




 (……なんだ、その目は)




 そこには、怒りの炎など欠片もなかった。




 動揺のさざ波すらない。




 ただ、南極の氷壁のように青白く、底が見えない「虚無」が、私を静かに映し返しているだけだった。




 「……そうか」



 堂島は、封筒の中身を確認しようともしなかった。



 万年筆のキャップを、カチリ、と閉める。




 その音が、私の勝利宣言への唯一の返答だった。




 「時期尚早だと思っていたが……お前がそこまで根回しをしたのなら、止めはせんよ」



 彼は椅子の背もたれから身体を離し、ゆっくりと立ち上がった。




 まるで、長年の重荷を下ろしたかのような、拍子抜けするほどの軽やかさだった。




 「待ってください! 悔しくないんですか!? あんたが築き上げた城を、私が奪うんですよ!」



 私は思わず声を荒らげていた。




 こんなあっけない幕切れは望んでいない。




 もっと熱い、血の味がするような勝利の略奪を、私は夢見ていたはずだ。




 堂島は部屋の出口で足を止め、一度だけ振り返った。




 その視線が、再び私を射抜く。




 それは、私の燃え盛る野心など、取るに足らない「熱病」だと診断する医者のような目だった。




 「座れば分かる」



 短くそう言い残し、彼は音もなく部屋を出て行った。




 残されたのは、私と、主を失った黒革の椅子だけ。




 私は、震える足でデスクの裏側へと回り込んだ。




 最高権力者の席。




 ずっと焦がれていた場所。




 私は、重厚な革張りのシートに腰を下ろした。




 ドサッ。




 身体が沈み込む。




 そこから見える景色は、確かに絶景だった。



眼下に広がる東京の夜景が、まるで宝石箱のように輝いている。




 私が支配する世界だ。




 「……ははっ、やったぞ」



 笑い声を上げてみる。




 だが、その声は吸音材の入った壁に吸われ、反響することなく消えた。




 寒い。




 急激に、身体の芯から熱が奪われていくのを感じた。




 先ほどまで燃え盛っていた野心の炎が、この椅子の冷たさに触れた瞬間、ジュッという音を立てるように鎮火していく。




 ここには誰もいない。




 怒りをぶつける相手も、情熱を共有する仲間も。




 ただ、下界を見下ろす孤独な視点があるだけだ。




 ふと、窓ガラスに自分の顔が映った。




 そこに映っていたのは、勝利に酔う若者の顔ではなかった。




 感情を失い、温度を失い、ただ冷徹に世界を見つめる――あの堂島と同じ、凍てついた目をした男だった。




 私は、万年筆を手に取った。




 その軸の冷たさが、私の指先を、そして心臓を、ゆっくりと侵食し始めていた。



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