蹄鉄とシナモン
ママのキャロットケーキ 競馬
この2つのお題での作品です。
ファンファーレが、安っぽいスピーカーから割れた音で響いている。
窓の外、砂煙を上げて疾走する馬群の影が、一瞬だけ横切った。
歓声と怒号。舞い上がるハズレ馬券。
私はモニターに背を向け、目の前の皿に視線を落とした。
無骨な、茶色の塊。
上に塗られたクリームチーズのフロスティングは雑に盛られ、お世辞にもパティスリーのショーケースに並ぶような代物ではない。
フォークを突き立てる。
ポロポロと生地が崩れ、中から鮮やかなオレンジ色の千切り人参が顔を覗かせた。
ふわり、と。
シナモンとナツメグの香りが鼻腔をくすぐる。
その瞬間、私の意識は、薄暗いダイナーから、乾草と馬の汗が染み付いたあの厩舎へと引き戻された。
『ほら、またつまみ食いしてる!』
甲高い叱り声と、その裏にある笑い声。
調教師の奥さん――私たちが「ママ」と呼んでいた女性が、エプロン姿でボウルを抱えている。
その視線の先。馬房から首を長く伸ばし、鼻先をヒクつかせている一頭の栗毛の馬。
名前は、そのまんま『キャロットケーキ』。
血統書には似つかわしくない、ふざけた名前だと誰もが笑った。
父は無名の種牡馬、母も未勝利。
走る芸術品と呼ばれるサラブレッドの中にあって、あいつは本当に、田舎の焼き菓子のように不格好で、愛想だけがいい馬だった。
『こら、これはアンタのじゃないのよ。……まあ、いいわ。特別よ』
ママは、焼きたてのケーキの端切れを、あいつの口元に差し出す。
ボリボリ、ムシャムシャ。
本来、競走馬に与えてはいけない砂糖と油の塊。
だが、あいつはその甘い匂いを嗅ぐと、猛獣のような気性を潜め、借りてきた猫のように大人しくなるのだった。
(……あの日も、そうだったな)
私は、崩れたケーキを口に運び、咀嚼する。
ザラリとした舌触り。広がる素朴な甘み。
あの日。
冷たい雨が降りしきる二月の開催日。
連闘に次ぐ連闘。
足元の不安を訴える私を無視し、馬主は出走を強要した。
『走らせろ。金がかかってるんだ』
ゲートが開き、キャロットケーキは飛び出した。
泥を跳ね上げ、いつになく好位につける。
行ける、と思った。
ママがスタンドで祈るように手を組んでいるのが見えた気がした。
だが、第4コーナー。
パァン。
鞭の音ではない。
枯れ木を無理やりへし折ったような、乾いた破裂音が、雨音を切り裂いて響いた。
あいつの身体が、ガクリと沈む。
投げ出される騎手。
悲鳴。
私は誰よりも早く駆け寄った。
泥まみれになった栗毛の馬体。
前脚は、ありえない方向に曲がっていた。
あいつは暴れなかった。
ただ、荒い息を吐きながら、濡れた瞳で私を見上げていた。
痛みよりも、困惑の色が濃かった。
「なんで走れないんだろう」と訴えるような目。
獣医師が首を横に振る。
青い幕――ブルーシートが、私たちの周りを囲う。
観客の視線を遮断するその壁の内側は、死刑執行室よりも静かだった。
『……ごめんね、ごめんね』
駆けつけたママが、泥だらけの顔を撫でる。
あいつは、ママのエプロンのポケットに、鼻先を擦り付けた。
そこに、いつもの「おやつ」が入っていないかを探すように。
最期の瞬間、彼が求めたのは勝利の栄光でも、癒やしの水でもなかった。
ただ、あの甘くてスパイシーな、ママの匂いだけだった。
私は喉の奥の詰まりを、コーヒーで無理やり流し込む。
苦い。
ケーキの甘さが、余計にコーヒーの苦味を際立たせる。
あいつは結局、一度も勝てなかった。
記憶に残る名馬でも、記録に残る強豪でもない。
ただ、私の記憶の中でだけ、このシナモンの香りと共に走り続けている。
「……ごちそうさん」
私は空になった皿に、小さく手を合わせた。
窓の外では、次のレースのファンファーレが、懲りもせず高らかに鳴り響いていた。




