悪い猫
猫
このお題でバットエンドの作品です。
その臭いは、ある日突然、大好きな彼女の背中から漂い始めた。
熟しすぎて崩れた柿のような、あるいは雨上がりの排水溝のような、甘ったるくて重い腐臭。
「ニャア(おかえり)」
僕はいつものように玄関まで迎えに行き、彼女の足元に体を擦り寄せる。
けれど、彼女の足首にまとわりつく「それ」に触れた瞬間、背中の毛が針金のように逆立った。
『黒い泥』だ。
不定形の影が、彼女の影にへばりつき、ずるずると這い上がろうとしている。
「シャーッ!」
僕は思わず喉の奥から威嚇の声を漏らした。
離れろ。彼女から離れろ。
「え……? どうしたの、ベル?」
彼女は驚いた顔で僕を見下ろす。
彼女には見えていないのだ。自分の命を少しずつ啜っている、この寄生虫の姿が。
それからの毎日は、孤独な戦争だった。
彼女が眠りにつくと、泥は活動を活発にする。
天井から垂れ下がり、彼女の口元へ、耳元へと触手を伸ばす。
僕はそのたびに飛びかかり、爪で空気を切り裂いた。
フギャア! ウゥーッ!
僕が泥を追い払うたび、花瓶が倒れ、本棚から本が落ちた。
「……もう、やめてよ!」
彼女はクマのできた目で僕を睨み、枕を投げつけるようになった。
違うんだ。君を守っているんだ。
そう伝えようと鳴いても、僕の声はただの不気味な唸り声として、彼女の鼓膜を震わせるだけだった。
彼女の顔色は日に日に青白くなり、代わりに影は濃く、肥大化していく。
そして、運命の夜が訪れた。
深夜二時。
影は、今まで見たこともないほど巨大な「手」の形をして、彼女の細い首を掴もうとしていた。
(いけない!)
僕はタンスの上から弾丸のように飛び出した。
狙うは影の手首。
全力で噛みつき、爪を立てて引き剥がそうとする。
バシュッ。
手応えがあった。
影が霧散する。
しかし、それと同時に。
「痛いッ!!」
闇をつんざく悲鳴。
明かりがつく。
彼女が手で押さえた左の頬から、紅い血が滴り落ちていた。
僕の爪には、影の残滓ではなく、彼女の皮膚片と血がこびりついていた。
「……嘘でしょ」
彼女は震える手で血を見つめ、そして、僕を見た。
その瞳に宿っていたのは、もう愛情ではなかった。
明確な、恐怖と拒絶。
「っ……出て行って!」
ドンッ、と脇腹を蹴り上げられた。
僕は床を転がり、そのまま抱き上げられると、乱暴に窓の外へと放り出された。
ガシャン!
窓の鍵がかかる音が、断頭台の刃が落ちる音のように響いた。
外は冷たい雨が降っていた。
僕は窓ガラスにへばりつき、必死に鳴いた。
開けてくれ。まだ終わっていないんだ。
まだ、あいつはそこにいるんだ。
ガラスの向こう。
彼女は泣きながら、鏡の前で傷の手当てをしている。
その背後。
僕が散らしたはずの影が、再び凝縮を始めていた。
今度はもう、邪魔をする「番犬」はいない。
影は、ゆっくりと、愉悦に歪むかのように形を変え、彼女の全身をすっぽりと包み込んだ。
部屋の照明が、チカチカと点滅する。
彼女が鏡の中の異変に気づき、振り返ろうとした、その瞬間。
プツン。
部屋の明かりが消えた。
僕の目の前には、雨粒に打たれる冷たいガラスと、その向こうに広がる、何一つ動かない漆黒の闇だけが残された。
「ニャア……」
僕の声は雨音にかき消され、もう二度と、彼女に届くことはなかった。




