表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/94

悪い猫


このお題でバットエンドの作品です。



 その臭いは、ある日突然、大好きな彼女の背中から漂い始めた。




 熟しすぎて崩れた柿のような、あるいは雨上がりの排水溝のような、甘ったるくて重い腐臭。




 「ニャア(おかえり)」




 僕はいつものように玄関まで迎えに行き、彼女の足元に体を擦り寄せる。




 けれど、彼女の足首にまとわりつく「それ」に触れた瞬間、背中の毛が針金のように逆立った。




 『黒い泥』だ。




 不定形の影が、彼女の影にへばりつき、ずるずると這い上がろうとしている。




 「シャーッ!」



 僕は思わず喉の奥から威嚇の声を漏らした。




 離れろ。彼女から離れろ。




 「え……? どうしたの、ベル?」



 彼女は驚いた顔で僕を見下ろす。




 彼女には見えていないのだ。自分の命を少しずつ啜っている、この寄生虫の姿が。




 それからの毎日は、孤独な戦争だった。




 彼女が眠りにつくと、泥は活動を活発にする。




 天井から垂れ下がり、彼女の口元へ、耳元へと触手を伸ばす。




 僕はそのたびに飛びかかり、爪で空気を切り裂いた。




 フギャア! ウゥーッ!




 僕が泥を追い払うたび、花瓶が倒れ、本棚から本が落ちた。




 「……もう、やめてよ!」



 彼女はクマのできた目で僕を睨み、枕を投げつけるようになった。




 違うんだ。君を守っているんだ。




 そう伝えようと鳴いても、僕の声はただの不気味な唸り声として、彼女の鼓膜を震わせるだけだった。




 彼女の顔色は日に日に青白くなり、代わりに影は濃く、肥大化していく。




 そして、運命の夜が訪れた。




 深夜二時。




 影は、今まで見たこともないほど巨大な「手」の形をして、彼女の細い首を掴もうとしていた。




 (いけない!)




 僕はタンスの上から弾丸のように飛び出した。




 狙うは影の手首。




 全力で噛みつき、爪を立てて引き剥がそうとする。




 バシュッ。




 手応えがあった。




 影が霧散する。




 しかし、それと同時に。




 「痛いッ!!」



 闇をつんざく悲鳴。




 明かりがつく。




 彼女が手で押さえた左の頬から、紅い血が滴り落ちていた。




 僕の爪には、影の残滓ではなく、彼女の皮膚片と血がこびりついていた。




 「……嘘でしょ」



 彼女は震える手で血を見つめ、そして、僕を見た。




 その瞳に宿っていたのは、もう愛情ではなかった。




 明確な、恐怖と拒絶。




 「っ……出て行って!」



 ドンッ、と脇腹を蹴り上げられた。




 僕は床を転がり、そのまま抱き上げられると、乱暴に窓の外へと放り出された。




 ガシャン!




 窓の鍵がかかる音が、断頭台の刃が落ちる音のように響いた。




 外は冷たい雨が降っていた。




 僕は窓ガラスにへばりつき、必死に鳴いた。

 開けてくれ。まだ終わっていないんだ。



まだ、あいつはそこにいるんだ。




 ガラスの向こう。




 彼女は泣きながら、鏡の前で傷の手当てをしている。




 その背後。




 僕が散らしたはずの影が、再び凝縮を始めていた。




 今度はもう、邪魔をする「番犬」はいない。




 影は、ゆっくりと、愉悦に歪むかのように形を変え、彼女の全身をすっぽりと包み込んだ。




 部屋の照明が、チカチカと点滅する。




 彼女が鏡の中の異変に気づき、振り返ろうとした、その瞬間。




 プツン。




 部屋の明かりが消えた。




 僕の目の前には、雨粒に打たれる冷たいガラスと、その向こうに広がる、何一つ動かない漆黒の闇だけが残された。




 「ニャア……」



 僕の声は雨音にかき消され、もう二度と、彼女に届くことはなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ