地底のティータイム
鍾乳洞 パンプキンパイ
この2つのお題での作品です。
ピチャン……。
その音だけが、世界のすべてだった。
地底三百メートル。
太陽の光など一度も届いたことのない、絶対的な闇の底。
ヘッドライトの光束が、濡れた岩肌を切り裂くように照らし出す。
天井から無数に垂れ下がる鍾乳石は、まるで巨大な生物の牙か、あるいは溶け落ちる瞬間に凍りついた白い蝋燭のようだ。
吐く息が白い霧となって、ライトの光に舞う。
気温は常に十度前後。肌にまとわりつく湿度は百パーセント近い。
ここは、時間の流れさえも停滞した、石と水の帝国だ。
(……ここらで、入れるか)
私は手頃な岩棚を見つけ、泥だらけのザックを下ろした。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
狭い隙間を這いずり、冷水に浸かり、ようやくこの「千畳の間」と呼ばれる大空洞に辿り着いたのだ。
ヘルメットのライトを弱め、闇の圧力を肌で感じる。
静寂が鼓膜を圧迫する。
私はザックの奥から、厳重に梱包されたプラスチック容器を取り出した。
パチリ、とロックを外す音が、空洞に鋭く反響する。
蓋を持ち上げた瞬間。
ふわり、と。
その場の空気が一変した。
湿った土と石灰の匂いが支配していた空間に、濃厚なバターの香りが爆発的に広がる。
続けて、シナモン、ナツメグ、そして焼き込まれた砂糖の甘い誘惑。
そこにあったのは、鮮やかなオレンジ色の中身が詰まった、一切れのパンプキンパイだった。
この無機質な灰色の世界において、その色彩はあまりにも暴力的で、そして愛おしい。
私は泥のついた手袋を外し、ウェットティッシュで丹念に指を拭う。
まるで聖なる儀式のように、慎重にパイを手に取った。
ずっしりとした重み。
妻が「遭難した時の非常食よ」と笑って持たせてくれたものだ。遭難はしていないが、心細さはそれに近かったかもしれない。
大きく口を開け、かぶりつく。
サクッ。
静寂の中に、軽快な破砕音が響く。
次の瞬間、舌の上でカボチャのペーストがとろりと溶け出した。
(……甘い)
脳髄が震えるほどの甘さだった。
濃厚なカボチャの風味。
それは、地上の太陽をたっぷり浴びて育った大地の味だ。
冷え切った食道を通って、胃袋に黄金色の熱が落ちていく。
五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことか。
スパイスの刺激が、麻痺しかけていた嗅覚を叩き起こし、バターの油分が、疲弊した細胞の一つ一つに潤滑油を注していく。
私は咀嚼しながら、目の前の巨大な石柱を見上げた。
この石柱が今の太さになるまでに、気の遠くなるような年月――数万年、いや数億年が費やされたはずだ。
対して、このパンプキンパイは、昨日の夜、一時間ほどで焼き上げられたもの。
億年の石と、一瞬の菓子。
けれど今、私の命を繋ぎ止めているのは、圧倒的に後者だった。
最後の一口を飲み込み、指についたパイ屑を舐め取る。
口の中に残るシナモンの余韻が、冷たい洞窟の空気を、少しだけ温かく感じさせた。
魔法が解けないうちに、行こう。
私は容器をしまい、再びザックを背負った。
腹の底には、小さな太陽が燃えている。
カチリ、とライトの光量を最大に戻す。
伸びる光の先、闇の奥へと続く狭い穴が、巨大な口を開けて私を待っていた。
「ごちそうさま」
誰にともなく呟いた声が、闇の奥深くへと吸い込まれていった。




