表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/94

未完のカーテンコール

触手 蛍火 目覚まし 台本 唐突な死


この5つのお題での作品です。



 深夜二時。




 リビングの空気は、吸いかけの煙草と、冷めたコーヒーの澱んだ香りで満たされていた。




 私は、読み古した台本をテーブルに放り投げた。




 バサリ、と乾いた音が、静寂に波紋を広げる。




 『深海より愛をこめて』それが今度の演目だ。




 だが、ラストシーンのト書きが、どうしても身体に入ってこない。




 『主人公は、深淵から伸びる光の腕に抱かれ、至福の中で息絶える』




 (……馬鹿げている)




 死とは、もっと無様で、泥臭いものだ。至福などあるものか。




 三流脚本家の妄想に付き合うのも楽ではない。




 私は溜息をつき、サイドボードの上の目覚まし時計に手を伸ばした。




 ジリジリとゼンマイを巻き、針を午前六時に合わせる。




 カチリ、とスイッチを入れる音。




 それが、私の日常を区切る確かな儀式だった。




 「寝るか……」



 ソファから立ち上がろうとした、その時だった。




 視界の端で、何かが瞬いた。




 最初は、小さな点滅だった。




 黄緑色の、淡い光。




 まるで、迷い込んだ一匹の蛍が飛んでいるかのような。




 目をこする。だが、光は消えない。




 それどころか、その「蛍火」は数を増し、軌跡を描いて伸び始めた。




 光の粒子が結合し、一本の長い紐になる。いや、あれは。




 「……触手?」



 半透明な、オパールのような輝きを放つ腕が、部屋の暗がりから音もなく伸びていた。




 一本、また一本。




 それは天井を這い、床を滑り、私の足元へと忍び寄る。




 幻覚だ。疲れているのだ。




 そう理性が警告する一方で、私の本能は、その美しさに目を奪われていた。




 頭の奥が、熱い。




 脳漿が沸騰するような感覚と同時に、指先の感覚が急速に失われていく。




 身体が、鉛のように重い。




 ああ、そうか。




 私は唐突に理解した。




 これは「病」だ。血管のどこかが破裂したか、詰まったか。




 死神が、すぐそこに立っている。




 だが、恐怖はなかった。




 代わりに湧き上がってきたのは、役者としての、業にも似た歓喜だった。




 (これだ……これだったのか)




 脚本家は正しかったのだ。





 迫りくる死は、こんなにも甘美で、優しく、そして暴力的な光の腕をしている。




 ゆらり、と光の触手が私の胸元へと伸びてくる。




 私は逃げなかった。




 麻痺していく唇を、必死に動かす。




 今なら言える。あのセリフが。魂を込めて。




 光の腕が、私の視界を完全に覆い尽くす。




 重力から解き放たれるような浮遊感。




 「……ああ、なんて……眩しい……」



 最期の言葉は、光の洪水に飲み込まれ、音になることはなかった。




 意識のブレーカーが、唐突に落ちる。




 プツン。




 暗転。



      *



 カーテンの隙間から、鋭い朝日が差し込んでいる。




 埃が、光の帯の中でダンスを踊っていた。




 ソファの上で、老人は眠るように崩れ落ちている。




 その顔には、どこか満足げな、子供のような微かな笑みが張り付いていた。




 床には、台本が開かれたまま落ちている。




 誰にも読まれることのなくなったト書きの上を、無機質な影が横切っていく。




 ジリリリリリリリリリリリ!




 セットされた目覚まし時計が、けたたましく鳴り響いた。




 金属的なベルの音は、主のいない部屋の壁に反響し、いつまでも、いつまでも鳴り止まなかった。




 その音だけが、ここに取り残された唯一の「生」であるかのように。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ