森の奥のシュガー・コート
お菓子の家 こども
この2つのお題でハッピーエンドの作品です。
枯れ枝がパキリと音を立てて折れ、その乾いた音が、静まり返った森に吸い込まれていく。
僕は振り返らなかった。
息が切れ、肺が焼け付くように熱い。
頬を伝う涙は冷たい風にさらされ、すでに乾きかけていた。
(もう、帰らない)
泥だらけのスニーカーで、僕はひたすら鬱蒼とした緑の奥へと足を進める。
家を出る時に聞こえた母親の金切り声も、父親の大きな溜息も、この森の湿った土の匂いが消し去ってくれるような気がした。
日が傾き、木々の影が長く伸び始める。
足元が暗がり沈み、鳥の声も途絶えた頃、不意に鼻先をくすぐるものがあった。
甘い、香り。
湿った苔や腐葉土の匂いとは異質の、濃厚で、どこか懐かしい香り。
焦がしたバター。沸き立つバニラ。
そして、じっくりと火を通された果実の気配。
まるで目に見えない糸に引かれるように、僕は道なき道をかき分けた。
藪を抜けた先に、ぽつりと、その家は建っていた。
屋根からはチョコレート色の煙突が突き出し、白い煙を上げている。
窓にはめ込まれたステンドグラスは、夕陽を透かして、まるで砕いたフルーツドロップのように赤や黄色に輝いていた。
「お菓子の家……?」
童話の記憶が蘇る。
ここに入れば、悪い魔女に捕まって食べられてしまうのだろうか。
けれど、漂ってくる香りは、僕の空っぽの胃袋を容赦なく締め上げた。
ギィ、と重厚な木の扉がひとりでに開く。
「あら、珍しいお客さまね」
中から現れたのは、鉤鼻の老婆ではなかった。
真っ白なエプロンをつけた、ふくよかな初老の女性。
その瞳は、煮詰めたカラメルソースのように優しく光っている。
彼女は僕の泥だらけの姿を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
「ちょうど、焼き上がったところなの。……少し、冷やしていく?」
促されるまま、僕は店内の高い椅子に腰を下ろした。
棚には瓶詰めされた金色の蜂蜜、色とりどりのドラジェ、焼きたてのフィナンシェが所狭しと並んでいる。
ここは魔女の釜茹で部屋ではない。
世界で一番甘い香りのする書庫のようだ。
コト、と目の前に置かれたのは、湯気を立てるアップルパイと、ホットミルク。
「さあ、熱いうちに」
僕はフォークを手に取り、狐色に焼き上げられたパイ生地に突き立てた。
サクッ。
軽快な音が響き、中から琥珀色の林檎が顔を覗かせる。
一口、口に運ぶ。
熱い。そして、甘い。
バターの芳醇なコクと、シナモンの香りが鼻腔を一気に駆け抜ける。
噛みしめるたびに、じゅわりと溢れ出す林檎の酸味と甘み。
冷え切っていた体の芯に、暖炉の火が灯ったようだった。
気がつけば、僕は夢中でパイを頬張っていた。
涙が出そうだった。悲しいからではない。
張り詰めていた心の糸が、砂糖菓子のようにほろほろと解けていくからだ。
「悲しいことや辛いことがあった時はね」
女性は、カウンター越しに僕を見つめ、悪戯っぽく微笑んだ。
「こうやって甘いものを食べて、心に『お砂糖のコート』を羽織るのよ。そうすれば、外の冷たい風も、ちっとも怖くなくなるわ」
シュガー・コート。
僕は口元についたパイ屑を舐め取りながら、その言葉を反芻した。
確かに、今の僕なら、どんな嵐の中だって歩けそうな気がする。
最後の一口を飲み込むと、窓の外はすでに夜の帳が下りていた。
「……帰らなきゃ」
「ええ、それがいいわ。きっと誰かが、あなたの帰りを待っている」
彼女は引き止めなかった。
その代わり、帰り道のお守りだと言って、掌サイズの小さなクッキーを一枚、僕のポケットに入れてくれた。
扉を開けると、夜風はやはり冷たかった。
けれど、今の僕には、体の中から発する熱がある。
僕は走り出した。
今度は、逃げるためではない。
森を抜け、坂を下る。
遠くに、僕の家の明かりが見えた。
玄関の灯りはついたままだ。
僕はポケットの上から、硬いクッキーの感触を確かめる。
その温かみを感じながら、大きく息を吸い込み、ドアノブに手をかけた。
ガチャリとドアが開く音は、きっと、「ただいま」の声よりも雄弁に響いただろう。
森の奥からは、今も微かに、バニラの風が吹いている気がした。




