表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/94

午前八時の深海魚

人生 社会の波 生きる道


この3つのお題での作品です。



 自動改札機が、絶え間なく警告音と通過音を吐き出している。



 ピッ、ピンポーン、ピッ、ピッ。




 その電子音は、規則正しい心電図のようでもあり、どこか焦燥を煽るカウントダウンのようでもあった。




 午前八時。




 地下二階のコンコースは、灰色の海水で満たされていた。




 視界を埋め尽くすのは、無数のダークスーツの背中だ。




 右も左も、前も後ろも。




 私はその巨大な塊の一部となり、吐き出された二酸化炭素と、微かな整髪料の匂いが淀む中を、無言で進んでいた。




 カツ、カツ、カツ、カツ。




 数千、数万の革靴がコンクリートを叩く音。




 それは巨大な生物の鼓動となって、私の足裏を振動させる。




 自分の足で歩いているのか、それとも巨大な潮流に背中を押されているだけなのか、感覚が麻痺してくる。




 (……苦しい)




 ネクタイが首を絞める鎖のように感じられた。




 肺が酸素を求めて軋む。




 このまま流れに乗っていれば、間違いなく目的地には着く。



会社のデスクという名の、指定された定位置へ。




 だが、そこは私が本当に行きたい場所だっただろうか。




 不意に、右足の感覚が軽くなった。




 誰かの足と接触し、靴紐が解けたのだ。




 そのまま歩こうとすれば、踏まれて転倒する。




 私は舌打ちを飲み込み、太いコンクリート柱の陰へと身を滑り込ませた。




 流れから弾き出された小石のように、私はその場にしゃがみ込む。




 その瞬間、世界が一変した。




 頭上を流れていた轟音が、遠い潮騒のように遠ざかる。




 視線の高さが変わるだけで、そこはエアポケットのような静寂に包まれていた。




 私は膝をつき、解けた紐を手に取る。




 目の前を、黒や茶色の革靴が、川の水のように絶え間なく流れていく。




 どれもが綺麗に磨かれ、尖り、そして同じ方向を向いていた。




 急げ、遅れるな、列を乱すな。




 そう命令されているかのように。




 ふと、その黒い奔流の中に、異質な色彩が混じっているのに気づいた。




 流れに逆らい、岩のように動かない一対の足。




 履き古され、泥の跳ね返りがついた、極彩色のスニーカーだった。




 私は紐を結ぶ手を止め、視線をゆっくりと上に這わせる。




 色落ちしたデニム。



 絵具の染みがついた指先。




 そして、自分の背丈ほどもある大きな画材ケースを背負った若者が、そこに立っていた。




 彼は人波に揉まれながらも、一枚のボロボロになった紙地図を広げ、真剣な眼差しで宙を見つめている。




 周囲のサラリーマンたちが迷惑そうに彼を避けていく。舌打ちも聞こえる。




 だが、彼は動じない。




 彼は、探しているのだ。




 誰かに敷かれたレールの上ではなく、自分自身がこれから進むべき道を。




 その姿は、この灰色の深海で唯一、自らのヒレで泳ごうとする魚のように見えた。




 (……ああ、そうか)




 私の胸の奥で、何かが小さく弾けた。




 流されているのではない。




 泳ぐのを止めていたのは、私自身だったのだ。




 私は、靴紐をギュッと固く結んだ。




 蝶結びの輪が、以前よりも力強く整う。




 ゆっくりと立ち上がる。




 再び、灰色の波が視界を覆う。




 喧騒が戻ってくる。




 だが、先ほどまでの窒息するような圧迫感は、もうない。




 私はネクタイの結び目を少しだけ緩め、深く息を吸い込んだ。




 肺の隅々まで、空気が行き渡る。




 若者の横を通り過ぎる時、心の中で密かにエールを送った。




 そして私もまた、一歩を踏み出す。




 流れに身を任せるためではない。




 この激流をかき分け、私が選んだ「今日」という岸辺へ辿り着くために。




 遥か頭上、地上への出口となる階段から、朝の光が一条、水底のようなフロアに差し込んでいた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ