午前八時の深海魚
人生 社会の波 生きる道
この3つのお題での作品です。
自動改札機が、絶え間なく警告音と通過音を吐き出している。
ピッ、ピンポーン、ピッ、ピッ。
その電子音は、規則正しい心電図のようでもあり、どこか焦燥を煽るカウントダウンのようでもあった。
午前八時。
地下二階のコンコースは、灰色の海水で満たされていた。
視界を埋め尽くすのは、無数のダークスーツの背中だ。
右も左も、前も後ろも。
私はその巨大な塊の一部となり、吐き出された二酸化炭素と、微かな整髪料の匂いが淀む中を、無言で進んでいた。
カツ、カツ、カツ、カツ。
数千、数万の革靴がコンクリートを叩く音。
それは巨大な生物の鼓動となって、私の足裏を振動させる。
自分の足で歩いているのか、それとも巨大な潮流に背中を押されているだけなのか、感覚が麻痺してくる。
(……苦しい)
ネクタイが首を絞める鎖のように感じられた。
肺が酸素を求めて軋む。
このまま流れに乗っていれば、間違いなく目的地には着く。
会社のデスクという名の、指定された定位置へ。
だが、そこは私が本当に行きたい場所だっただろうか。
不意に、右足の感覚が軽くなった。
誰かの足と接触し、靴紐が解けたのだ。
そのまま歩こうとすれば、踏まれて転倒する。
私は舌打ちを飲み込み、太いコンクリート柱の陰へと身を滑り込ませた。
流れから弾き出された小石のように、私はその場にしゃがみ込む。
その瞬間、世界が一変した。
頭上を流れていた轟音が、遠い潮騒のように遠ざかる。
視線の高さが変わるだけで、そこはエアポケットのような静寂に包まれていた。
私は膝をつき、解けた紐を手に取る。
目の前を、黒や茶色の革靴が、川の水のように絶え間なく流れていく。
どれもが綺麗に磨かれ、尖り、そして同じ方向を向いていた。
急げ、遅れるな、列を乱すな。
そう命令されているかのように。
ふと、その黒い奔流の中に、異質な色彩が混じっているのに気づいた。
流れに逆らい、岩のように動かない一対の足。
履き古され、泥の跳ね返りがついた、極彩色のスニーカーだった。
私は紐を結ぶ手を止め、視線をゆっくりと上に這わせる。
色落ちしたデニム。
絵具の染みがついた指先。
そして、自分の背丈ほどもある大きな画材ケースを背負った若者が、そこに立っていた。
彼は人波に揉まれながらも、一枚のボロボロになった紙地図を広げ、真剣な眼差しで宙を見つめている。
周囲のサラリーマンたちが迷惑そうに彼を避けていく。舌打ちも聞こえる。
だが、彼は動じない。
彼は、探しているのだ。
誰かに敷かれたレールの上ではなく、自分自身がこれから進むべき道を。
その姿は、この灰色の深海で唯一、自らのヒレで泳ごうとする魚のように見えた。
(……ああ、そうか)
私の胸の奥で、何かが小さく弾けた。
流されているのではない。
泳ぐのを止めていたのは、私自身だったのだ。
私は、靴紐をギュッと固く結んだ。
蝶結びの輪が、以前よりも力強く整う。
ゆっくりと立ち上がる。
再び、灰色の波が視界を覆う。
喧騒が戻ってくる。
だが、先ほどまでの窒息するような圧迫感は、もうない。
私はネクタイの結び目を少しだけ緩め、深く息を吸い込んだ。
肺の隅々まで、空気が行き渡る。
若者の横を通り過ぎる時、心の中で密かにエールを送った。
そして私もまた、一歩を踏み出す。
流れに身を任せるためではない。
この激流をかき分け、私が選んだ「今日」という岸辺へ辿り着くために。
遥か頭上、地上への出口となる階段から、朝の光が一条、水底のようなフロアに差し込んでいた。




