僕を忘れて、君を呼ぶ
消えゆく過去と生まれゆく未来
消えない過去と忘れゆく今とその後
この2つのお題でメリーバットエンドの作品です。
ピー、ピー、という電子音だけが、白い部屋の静寂を刻んでいる。
僕は椅子に深く沈み込み、たくさんのケーブルに繋がれていた。
そのケーブルの先には、ガラスの棺で眠る「君」がいる。
事故で失った君の肉体を再現した、完璧な有機素体。けれど、中身は空っぽだ。
「転送率、八〇パーセントを超えました」
無機質なアナウンスが響く。
視界が少しずつ霞んでいく。
頭の中の引き出しが、端から順番に抜き取られていく感覚。
僕が君を蘇らせるために選んだのは、「僕の記憶」を君に移植することだった。
君がどんな声で笑ったか。
どんな風に怒り、何を愛していたか。
それを知っているのは、世界で僕だけだ。
だから、僕の脳にある「君の記録」をすべて注ぎ込めば、君は未来に蘇る。
その代わり、僕の中から、君という過去は消えゆく。
(ああ……このカフェ、よく行ったな)
モニターに流れるデータを見て、僕はぼんやりと思う。
でも、次の瞬間には、「よく行った」という事実だけが残り、そこでの楽しかった感情は消滅していた。
君が色づいていく。
頬に血色が戻り、指先がピクリと動く。
その美しさに、僕は安堵する。
これでいい。僕が君を忘れても、君の中に「僕が愛した君」が残るなら。
「転送率、九九パーセント」
不意に、強烈な目眩が襲った。
……あれ?
僕は、誰だっけ。
ここは何処だ。目の前で寝ている、この綺麗な女の子は誰だ。
名前が思い出せない。
今、自分が何のために座っているのかも分からない。
思考が砂のように崩れ落ち、忘れゆく。
けれど、胸の奥底に焼き付いた「愛おしい」という熱だけは、消えない過去としてこびりついている。
理屈ではない。本能が、目の前の少女に全てを捧げろと叫んでいる。
(綺麗だなぁ)
僕は空っぽの頭で、ただうっとりと彼女を見つめた。
自我が消滅する寸前、最後の幸福感が脳を満たす。
「転送、完了しました」
――そして、その後。
プシュウ、と音を立ててガラスの棺が開く。
少女が、長い睫毛を震わせて目を覚ました。
その瞳には、かつての彼女にはなかった、深い愛情と慈しみの光が宿っている。
彼女はゆっくりと身を起こし、椅子に座る抜け殻の男を見た。
「……私の、命」
彼女は知っている。
彼がどれほど自分を愛していたか。
どんな眼差しで自分を見ていたか。
だって、今の彼女の心は、「彼が彼女を愛した記憶」そのもので出来ているのだから。
少女は、涎を垂らして虚空を見つめる男の頬を、両手で包み込んだ。
「ありがとう。私ね、今、世界で一番幸せよ」
彼女が微笑む。
男は、自分が誰かも、彼女が誰かも分からない。
けれど、その笑顔があまりにも輝いていたから。
「あ……う……」
男の顔に、とろけるような笑みが浮かんだ。
意味なんてなくていい。過去も未来もなくていい。
ただ、大好きな人が笑っている。
それだけで、彼の世界は満たされていた。
白い部屋の中、二人は抱き合う。
失うことで完成した、いびつで完全な愛の形がそこにあった。




