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25時の深海魚

夜の社会人の現実と非現実


この1つのお題での作品です。



 エンターキーを叩く音が、乾いた銃声のように静寂を引き裂く。




 深夜一時。都心のオフィスビル、二十四階。

 広いフロアには、私以外誰もいない。




 空調の音だけが「ヴーーン」と、巨大な生物の呼吸音のように響いている。




 これが社会人の現実だ。




 明日朝イチの会議資料。修正に次ぐ修正。




 カフェインの錠剤で無理やり開いた瞳孔には、エクセルの羅列が焼き付き、瞬きをするたびに砂が入ったような痛みが走る。




 「……はぁ」



 重たい溜息を吐いた、その時だった。




 口から出たのは二酸化炭素ではなく、銀色の「泡」だった。




 ボコボコ、と音を立てて泡が天井へと昇っていく。




 (ああ、またか)




 私は驚かなかった。



限界を超えた残業の夜には、よくあることだ。




 モニターから溢れ出したブルーライトが、粘度のある液体となってフロアを満たし始めていた。




 くるぶしまで浸かった青い水は、瞬く間に腰へ、首へ、そして頭上へと達する。




 非現実の浸水。




 けれど、息苦しさはない。



むしろ、鉛のように重かった肩の凝りが、浮力によって解けていく。




 私は革靴のつま先で床を蹴り、ふわりと宙へ浮いた。




 隣の席の課長のデスクでは、未処理の書類たちがイソギンチャクのようにゆらゆらと触手を伸ばしている。




 天井の蛍光灯は水面となり、遠くの光を揺らめかせている。




 Wi-Fiルーターの点滅が、発光する小魚となって私の頬を掠めていった。




 私は優雅に腕をかき、窓際へと泳いでいく。




 分厚いガラスの向こうには、深海都市が広がっていた。




 ビルの明かりは海底火山の残り火。




 その谷間を、光の粒を纏った長い影――最終電車という名のリュウグウノツカイが、音もなく滑り抜けていく。




 美しい、と思った。




 音も、重力も、責任もない世界。




 このままエラ呼吸になって、データの海を永遠に漂えればどれほど楽だろう。




 けれど、私の指先は無意識のうちに、マウスの「保存」ボタンを探していた。




 悲しい習性だ。




 カチッ。




 そのクリック音を合図に、魔法が解ける。




 潮が引くように青い水はモニターの中へ戻り、重力がドサリと肩にのしかかる。

 



 残ったのは、静まり返ったオフィスと、完成した資料データだけ。




 「……帰ろう」



 私はPCをシャットダウンし、ネクタイを少しだけ緩めた。




 エレベーターホールへ向かう足取りは、来る時よりも少しだけ軽い。

 



 外に出れば、また息の詰まる地上戦が待っている。




 だからこそ、今は深く息を吸う。




 明日もまた、この深く暗い海へ潜るために。



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