0秒のタイムマシン
犬
この1つのお題でハッピーエンドの作品です。
僕の世界は、もう何年も前から薄い霧の中にある。
自慢だった鼻も少し利かなくなったし、ボールを追いかけて走った芝生の感触も、今は遠い夢のようだ。
日当たりの良い窓際。ここが今の僕の指定席だ。
身体が鉛のように重い。ただ、こうして微睡みの中で、あの日々の記憶を反芻することだけが、僕の仕事だった。
「彼」がいなくなってから、いくつ太陽が昇って沈んだだろう。
家族は優しくしてくれるけれど、僕の心の真ん中には、ぽっかりと冷たい穴が空いている。
……ん?
不意に、垂れた耳がピクリと動いた。
遠く、本当に遠くで、砂利が擦れる音がした。
ザッ、ザッ。
そのリズムを、僕は知っている。
郵便屋のバイクじゃない。回覧板を持ってくる隣のおばさんでもない。
少し踵を引きずるような、不器用で優しい足音。
まさか。でも。
鼻をヒクつかせる。
風に乗って、微かな粒子が届いた。
汗と、使い古したデニムと、安っぽい整髪料。そして、僕を何万回も撫でてくれた手のひらの匂い。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
錆びついていた関節に、油が差されたように熱が走る。
僕は重たい身体を起こした。
「ワン!」と叫ぼうとして、掠れた音しか出ない。
けれど、尻尾だけは、メトロノームのように激しく床を叩き始めていた。
ガチャリ。
玄関の鍵が回る金属音が、ファンファーレのように響く。
「……ただいま」
ドアが開く。
逆光の中に立つシルエット。霞んだ目にはよく見えないけれど、間違いない。
僕は走った。
足が痛いことなんて忘れた。フローリングで爪を滑らせ、転びそうになりながら、その懐かしい胸の中へと飛び込む。
「うわっ! 元気だなあ、お前は」
受け止めてくれた腕の強さ。
顔を埋めた服の匂い。
「待たせたな。……留学、終わったよ」
彼が僕の頭を、昔と同じようにワシャワシャと撫でる。
その瞬間、霧は晴れた。
僕は老いた犬ではなく、彼とボールを追いかけていた頃の、無敵の仔犬に戻っていた。
キュゥゥン、と甘い声が喉から漏れる。
尻尾が、パタパタと彼の背中を叩く。
おかえり。おかえり。
僕の時間は、今また、ここから動き出す。




