あおの巡礼
沖縄 ウミガメ
この2のお題での作品です。
亜熱帯の夜風は、肌にまとわりつくような湿度を孕んでいる。
珊瑚の死骸でできた白い砂浜は、月の光を吸い込んで青白く発光していた。
波の音だけが支配する世界。
僕は体育座りをして、寄せては返す白い波頭を、飽きもせず眺めている。
東京に置いてきた仕事のトラブルも、人間関係の軋みも、この圧倒的な潮騒の前では、ただのノイズに過ぎない。
ザッ、ザッ。
不意に、波音とは異なる、重たく湿った音が砂浜の奥から響いた。
目を凝らすと、闇の一部が隆起し、ゆっくりとこちらへ向かってくるのが見えた。
ウミガメだ。
軽自動車のタイヤほどもある巨大な甲羅が、月光を濡れた黒曜石のように反射している。
(……大きい)
息を殺して見守る。
彼女――おそらく産卵を終えた母亀だろう――は、陸という異界の重力に抗いながら、ヒレのような前足で懸命に砂を掻いていた。
「フゥー、フゥー」という荒い呼吸音が、数メートル離れた僕の耳にも届く。
その目からは、体内の塩分を排出するための粘り気のある涙が、とめどなく溢れていた。
苦しそうだ、と思った。
本来いるべき場所ではない世界で、泥に塗れ、重さに耐え、ただひたすらに前を目指す姿。
それは、満員電車に揺られ、ビルの谷間で呼吸を忘れていた自分自身の姿と重なって見えた。
「……がんばれ」
喉の奥で、小さく呟く。
カメは一度だけ立ち止まり、濡れた黒い瞳で僕の方を――あるいはその向こうの海を――見つめ、再び前足を踏み出した。
やがて、彼女の鼻先が、白波に触れる。
その瞬間だった。
今まで重枷のように彼女を縛り付けていた重力が、ふわりと解き放たれる。
次の波が彼女の体をさらった時、鈍重だった「黒い岩」は、優雅で軽やかな「蒼い翼」へと変わった。
水を得た彼女は、一掻きするごとに数メートル進み、あっという間に沖の深みへと滑っていく。
陸での苦闘が嘘のように、彼女は自由だった。
(ああ、帰ったんだ)
沖の方で一度だけ、プハッと息継ぎをする頭が見え、すぐに波間へと消えた。
東の水平線が、紫からオレンジへとグラデーションを描き始めている。
沖縄の、濃密な朝が来る。
僕は立ち上がり、ズボンについた砂を払った。
肺いっぱいに吸い込んだ空気は、昨日よりも少しだけ軽く感じられた。
泳ぎ出す場所は違っても、僕もまた、自分の海を見つけられるかもしれない。
朝焼けに染まる波打ち際に、カメが残した一本の轍だけが、確かな道標として残っていた。




