修正された微笑み
白磁の皿に、鮮やかな赤色のベリーソースがかかったパンケーキ。
淹れたてのアールグレイの香り。
そして、テーブルの向かいには、春の日差しを凝縮したような妻の笑顔。
「おいしい? ケイ」
「ああ、最高だ。君の料理の腕は、生前……いや、昔と変わらないな」
俺の言葉に、ユミは嬉しそうに目を細めた。
長い睫毛、笑うとできる左頬のえくぼ、首元の小さな黒子。
その全てが、一年前に交通事故で失われたはずの彼女そのものだ。
俺たちは「奇跡」の中にいる。
最新鋭の生体工学と、俺が開発した人格転写技術。
それらが、神の領域を超え、彼女を冥府から連れ戻したのだ。
法も倫理も犯したかもしれない。
だが、この満ち足りた朝の光景が、俺の正しさを証明している。
ハッピーエンドは、俺の手で勝ち取ったのだ。
「ねえ、ケイ」
フォークを置いて、ユミが首を傾げた。
俺は見逃す事が出来なかった。
その瞳の奥に、微かな、本当に微かな陰りが走るのを。
「なにかな、ユミ」
「私ね、昨日の夜、夢を見たの」
「夢?」
「うん。……冷たい鉄の塊がぶつかってくる夢。体が砕けて、すごく痛くて、寒くて……。それでね、目が覚めたら、ここがどこなのか一瞬分からなくなったの。私の手も、足も、全部作り物みたいな気がして……」
ユミの声が震え始める。
彼女の手が、ガタガタと音を立ててティーカップを揺らした。
「怖い……怖いの、ケイ。私、本当に生きてるの? ここは天国なの? それとも……」
涙が、彼女の美しい頬を伝う。
その涙の成分さえも、人間のそれと化学的に同一であるように設計してある。
完璧な悲しみ。完璧な怯え。
俺はため息を呑み込み、椅子から立ち上がった。
彼女の元へ歩み寄り、その震える肩を優しく抱きしめる。
「大丈夫だよ、ユミ。それはただの……悪い夢だ」
「でも、あんなにリアルで……心が、軋むような音がするの」
俺は、彼女の背中を撫でながら、左手首のスマートウォッチに視線を走らせた。
コンソール画面に、赤い警告表示が点滅している。
『エラーコード:404 - 記憶統合不全』
『自我同一性バイアス:閾値超過』
またか。
蘇生から三ヶ月。
脳内データの定着率は九十九パーセントだが、残りの一パーセントが、定期的にバグとなって表出する。
――かつての「死の記憶」と、現在の「人工肉体への違和感」
この悲しみは、彼女の人格ではない。
ただのシステムエラーだ。
俺たちの幸せな生活を阻害する、除去すべきノイズだ。
「……少し、疲れが溜まっているみたいだね。横になろうか」
「う、うん……ごめんなさい、ケイ。せっかくの朝なのに」
「謝らなくていい。僕が治してあげるから」
俺は彼女を抱き上げた。
その体は軽く、温かい。
内部のサーモスタットは正常に機能している。
リビングを出て、廊下の奥にある「寝室」へと向かう。
そこにはベッドではなく、白いカプセル型の調整槽が鎮座していた。
その異様な光景を見ても、今のユミは疑問を抱かない。
彼女の認識フィルターには、これがただのベッドに見えるよう、視覚野に干渉コードを送っているからだ。
カプセルに彼女を横たえると、俺は手慣れた動作でケーブルを彼女の後頭部――髪に隠れた接続端子へと繋いだ。
「ケイ……? なんだか、眠くなって……」
「ゆっくりお休み。目が覚めれば、怖い夢は全部消えているよ」
コンソールを操作し、『記憶領域:直近48時間』の削除を選択する。
そして、『感情パラメータ:幸福・平静』を最大値で固定し、『不安・疑念』のセクタをフォーマットする。
画面上のプログレスバーが伸びていく。
「……消さないで」
意識が混濁する寸前、ユミが掠れた声で言った。
「この不安も、痛みも……私のものよ。私の一部なの。だから……お願い、私を、私のままで……」
彼女の瞳が、必死に俺を訴えかけていた。
それは、プログラムされた反応ではない、彼女の魂の叫びのように聞こえた。
だが、俺は迷わず『Enter』キーを押した。
君は間違っている、ユミ。
君は幸せでなければならないんだ。
苦しみや悲しみなんてものは、僕が君に与えた「第二の生」には不要な不純物だ。
だって、俺たちは「幸せに暮らしました」という結末を迎えたのだから。
その結末を汚すものは、たとえ君自身の感情であっても、俺は許さない。
プシュウ、と小さな排気音がして、カプセルが密閉された。
中では、淡い青色の光が彼女を包み込み、脳内の神経回路を焼き直していく。
不要な記憶が、悲しみが、恐怖が、デジタルの海へと溶けて消えていく。
十分後。
カプセルが開き、ユミがゆっくりと目を開けた。
そこにはもう、涙も、怯えも、死への問いかけもなかった。
あるのは、生まれたてのような無垢な輝きだけ。
「……あれ? ケイ、私、いつの間にか寝ちゃってた?」
「ああ。少しうたた寝をしていただけだよ」
俺は微笑み、彼女の手を取った。
「おはよう、ユミ。気分はどう?」
彼女は、春の日差しを凝縮したような、あの一点のアラもない完璧な笑顔を浮かべた。
「ええ、最高よ! なんだか、とっても幸せな夢を見ていた気がするの」
「そうか。それはよかった」
俺は彼女を抱きしめ、その柔らかい髪に顔を埋めた。
今度こそ、バグは消えたはずだ。
少なくとも、また数週間は、この完璧なハッピーエンドを再生し続けられるだろう。
もしまたエラーが出たら?
構わない。
何度でも直せばいい。
何度でも、何度でも。
俺の愛は、完璧なのだから。




