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第九話「揺れる信念」

 ベルナルドが静かにシエルの名前を呼んだその瞬間、シエルの心は一瞬で乱れた。彼の声が胸の奥に響くようで、言葉の一つ一つがどこまでも深く染み込んでいくようだった。


「シエル嬢」


 その言葉に、シエルは微かに息を呑んだ。ベルナルドの姿は真剣で、どこか固い表情をしている。彼があの言葉を口にするたびに、シエルはなぜか自分の内側で何かが崩れていくような感覚を覚える。


「どうしたんだ?」


 シエルはなんとか冷静を装い、無理に微笑みかけた。しかしその笑みは、どこかぎこちなく、心から湧き上がったものではなかった。


「シエル嬢、二日前のことについて話がしたい」


 ベルナルドはそう言いながら、ゆっくりと部屋に足を踏み入れる。その表情はどこか真剣で、隠しきれない不安を滲ませている。


「二日前のこと?」


 シエルは一瞬だけ思考を止めた。二日前――あの戦いのこと。彼女にとっては、決して忘れられない夜であり、同時に抑えきれない欲望に悩まされるきっかけとなった夜でもあった。


「ああ。あの戦闘のあと様子がおかしかっただろう?」


 ベルナルドは言葉を続けようとしたが、シエルの目に写る彼の姿が、どうしても心を乱してしまった。


(どうして、彼は私を気にかけているの?)


 その疑問が頭を過ぎるが、シエルはその思いをすぐに押し込めた。ベルナルドが自分のことを気にかけているのは、ただの優しさだ。彼は誰にでも優しい。特に、自分が大切にしている仲間や人々には、いつでもそうだ。


「シエル嬢、二日前はなにか無理をしなかったか? 具合が悪そうなのはそのせいか?」


 ベルナルドが心配そうに言うと、その気持ちが胸の中でじわじわと温かく広がった。しかし、その温かさと同時に、シエルの心は乱れ、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。


(私は、何かを隠している)


 その思いが、彼女をさらに不安にさせた。彼に正体を知られたくないという気持ちが、どんどん膨れ上がっていく。


「いえ、大丈夫よ」


 シエルは微笑みながら答える。しかし、その笑顔は本当の意味でのものではなく、むしろ自分を隠すために作り上げたものだった。


 ベルナルドはしばらくシエルを見つめ、黙っていた。その静かな視線が、シエルの心にどんどん圧力をかけてくるようで、ますます息が詰まりそうになる。


「シエル嬢、何か隠していないか?」


 その一言が、シエルを震えさせた。まるで心の奥に触れられたような感覚だった。


「隠してないわよ」


 シエルはその言葉を必死に口にする。しかし、その声が震えていることに、彼女自身が気づいていないわけではなかった。


 ベルナルドはじっと彼女を見つめ、目を細める。


「シエル嬢……」


 その呼びかけに、シエルは思わず視線を外した。彼の目が、どうしてこんなにも自分を見透かすように感じられるのか。彼が疑いを持っているわけではないと分かっているのに、なぜか心が引き裂かれそうになる。


「大丈夫、何も問題ないわ」


 シエルは再び言った。しかし、心の中では何度も叫び声が響いていた。今、もしベルナルドが自分の正体に気づいてしまったら――そのとき、どうすればいいのか。


(どうして、こんなにも心が揺れるの?)


 シエルは心の中で何度も問いかけた。ベルナルドの血の匂いが、どうしても忘れられない。どんなに努力しても、それを感じ取ってしまう自分をどうにかしなくてはならない。


 そのとき、ベルナルドが少し間を置いてから言った。


「シエル嬢、あまり無理をするな。何かあれば、いつでも俺を頼っていい」


 その言葉に、シエルは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「ありがとう、ベルナルド」


 その一言をかろうじて口にしたシエルは、深く息を吐きながら、心の中で強く誓った。


(私は、彼に正体を知られるわけにはいかない)


 その誓いが、彼女の心を強く支える唯一の拠り所となっていた。



 ***



 シエルはベルナルドと別れた後、しばらくその場で立ち尽くしていた。心の中に残った言葉が、まるで刃のように突き刺さり、どうしても振り払えない。


(彼に気づかれたら……)


 彼の優しさが痛いほど胸に響く。あの言葉、あの目。どれもが優しさに満ちていて、それが逆に彼女の心を圧迫していた。シエルは、自分の心の中に湧き上がる感情に、どう対処すべきか分からなかった。


「ああ、もう……」


 自分を静めるために、シエルは深く息を吐き出す。今、目の前にあるのは現実だ。ベルナルドが自分を心配してくれているのは、単なる優しさからだと分かっている。それ以上でも、それ以下でもない。


 それでも、シエルは彼の目を見られなくなる自分がいた。


(どうして、こんなに心が乱れるのか)


 シエルはそのまま自室へと戻る。窓を開け、冷たい風を部屋に入れた。外の空気はひんやりとしていて、シエルの熱を少しずつ冷やしてくれるようだった。だが、それでも彼のことが頭から離れなかった。


 ――ベルナルド。彼の血の匂い。


 シエルは目を閉じ、その匂いを思い出そうとする。だが、記憶に刻まれているのは、何度も感じたことのある冷徹な夜の匂いではなく、暖かさと温もりを感じさせる香りだった。それは、彼がただのヴァンパイアハンターではないという証でもあるように思えた。


「……あの人が、どうして?」


 シエルは呟く。ベルナルドにとって、自分はただの吸血鬼の令嬢であり、目をつけられてもおかしくない存在だ。だからこそ、シエルは自分の正体を守らなければならない。そのためには、彼の目から逃げるしかない。


 だが、それができない自分がいることに気づく。


(どうしてこんなに、心が揺れるの?)


 その時、扉がノックされ、シエルははっと顔を上げた。


「シエル様、少しお話しできるでしょうか?」


 その声は、執事のカーティスだった。シエルはため息をつき、すぐに答える。


「入って」


 カーティスが部屋に入ってくると、彼は少し不安げな顔でシエルを見つめた。


「シエル様、最近お加減が悪いようでございますが、何かお力になれることがあれば、お申し付けください」


 その言葉に、シエルは微笑んで答えた。


「大丈夫よ、カーティス。ただ少し考え事をしていただけ」


 カーティスはしばらくシエルを見つめていたが、やがてゆっくりと首を横に振った。


「無理はなさらないでください、シエル様。私たちはいつでもお手伝いさせていただきます」


 その優しさが、またシエルの心を締め付ける。彼女は静かに頷き、部屋を静寂に戻した。


「ありがとう、カーティス」


 その言葉を最後に、カーティスは部屋を後にした。シエルは再びひとりになり、窓の外の風景をぼんやりと眺める。


(もし、私が正体を知られたら、どうなるんだろう)


 その問いが、彼女の胸をずっと締め付けていた。



 ***



 その日の夜、シエルは再びベルナルドのことを思い出していた。あの優しい目と温かい言葉が、どこまでも彼女を引き寄せるようだった。しかし、どれだけ心を乱されても、シエルはその感情を抑え込まなくてはならなかった。


(私は吸血鬼の令嬢。人間と吸血鬼の境界を越えてはいけない)


 シエルは強くそう自分に言い聞かせる。


 だが、心の中の小さな声が、それでもベルナルドに対して感じるものを否定できなかった。


(でも、もし彼が本当に……)


 その疑問を、シエルは飲み込んだ。


(私は、もう戻れないのかもしれない)


 その思いが、シエルの心に深く刻まれていった。

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