第二話「絶対にバレたくないのに!」
シエルは自分の部屋の窓から夜の街を見下ろしていた。
(今夜こそ、絶対にベルナルドと遭遇せずに帰ってくる……!)
昨夜のことを思い出すだけで、心臓が痛くなる。いや、正確には吸血鬼に心臓の鼓動はほとんどないけれど、それでも精神的なダメージは計り知れなかった。
(私がヴァンパイアハンターに心配されるなんて、そんなの間違ってるわよ!)
もう二度と彼と関わることのないよう、今夜は慎重に行動しよう。そう決意して、シエルは夜の街へと出た。
しかし――
「っ……何、これ……?」
帰り道の路地裏で、異様な気配を感じた。空気が重く、ひんやりとした感触が肌を刺す。まるで、死の気配が漂っているようだった。
(……嫌な感じがする)
普段なら関わらずに立ち去るべきだ。けれど、吸血鬼としての本能が、この場に「異質な何か」がいることを告げていた。
静かに息を潜めながら、シエルはそっと路地の奥を覗いた。
そこには――
「……!」
倒れ込む人影と、その上に覆いかぶさるような黒い影。
人間に見えるが、その動きは異常だった。手足の動きが不自然で、まるで操り人形のようにぎこちない。
(まさか……これは、吸血鬼!?)
けれど、普通の吸血鬼とは何かが違う。理性が欠けているように見えるし、動きが妙に鈍い。
(こんな存在、聞いたことない……!)
シエルがどうするべきか迷っていると、急に黒い影がビクッと反応した。
「――ッ!」
その吸血鬼が、シエルの存在に気づいたのだ。
次の瞬間、影が一瞬にしてこちらへ向かってきた。
「しまっ――」
逃げる暇もなく、シエルは強い力で押し倒された。背中を地面に打ちつけ、息が詰まる。
間近で見ると、それは人間だった頃の名残をかすかに残していた。だが、その瞳には焦点がなく、理性の光は完全に消えている。
「グルル……」
牙を剥いたその口から、低いうなり声が漏れる。
(ダメ……このままじゃ……!)
反射的に力を込めようとした、そのとき――
「……そこまでだ」
鋭い声が響いた。
次の瞬間、銀色の光が閃き、シエルの上にのしかかっていた影が吹き飛んだ。
「――大丈夫か?」
振り返ると、そこにはベルナルド・ノヴァが立っていた。
「……!」
今、一番会いたくない相手が、最悪のタイミングで現れた――
***
「無事か?」
ベルナルドの声が降ってきた。
(ぜ、絶対に無事じゃない……!)
シエルは地面に倒れたまま、必死に冷静を装う。吸血鬼としての身体能力があるから、この程度の衝撃では傷ひとつつかないけれど、人間のフリをしている以上、それを悟られるわけにはいかない。
「う、うん……びっくりしたけど、なんとか……」
震える声で答えると、ベルナルドはじっと彼女を見つめた。
「そっか。無事ならいい」
彼の視線はまるで探るようで、思わず息を詰める。
(だ、だめ! 少しでも不審な動きをしたら、絶対に怪しまれる!)
慌ててゆっくりと起き上がり、服の裾を払う。ベルナルドの視線が、先ほど吹き飛ばされた"何か"へと移った。
「……妙だな」
呟いた彼の目が鋭くなる。
シエルも改めて視線を向けると、そこに横たわっていたのは――完全に理性を失った吸血鬼だった。
(やっぱり……! でも、普通の吸血鬼じゃない。なんだか、おかしい……)
本来なら、吸血鬼はこうも簡単に力を失わない。ベルナルドが何をしたのかは分からないけれど、この異変には何か理由があるはずだった。
「お前、こんな危ない場所で何をしていたんだ?」
ベルナルドが怪訝そうに尋ねる。
「えっ? あ、あの……」
しまった。適当な理由を考えていなかった。
「えっと、その……帰り道で……迷って?」
言い訳としては弱すぎる。が、ベルナルドは少し考え込んだあと、ため息をついた。
「こんな時間にひとりで出歩くなよ。今夜は変なのがうろついている」
「変なの……?」
「そうだ」
ベルナルドは倒れている吸血鬼を見下ろしながら言う。
「これは普通の吸血鬼じゃない。理性がなく、ただ本能のままに動く【化け物】だ」
(やっぱり、私の知ってる吸血鬼とは違う……)
ベルナルドは腰のホルスターから短剣を取り出すと、慎重に吸血鬼の動きを確認した。
「まるで操られているみたいだ……最近、こういうのが増えてきてる」
「増えてる……?」
「そうだ。まるで誰かが意図的に作り出してるみたいにな」
ゾクリと背筋が凍る。
(そんなことが……? 誰かが、吸血鬼をこんな風に……?)
シエルが言葉を失っていると、ベルナルドはふと彼女の顔を見つめた。
「……お前、本当に大丈夫か?」
「え?」
「さっき倒れてたけど、怪我してないか?」
(や、やばい……!)
吸血鬼の体は普通の人間より遥かに頑丈だ。軽く押し倒された程度では、かすり傷ひとつできない。
でも、ここで『何ともない』と答えるのは不自然すぎる!
「えっと……た、たぶん……」
「どこか痛むか?」
ベルナルドがスッと手を伸ばす。
(ひぃっ、こ、怖い!)
もし、吸血鬼特有の冷たい肌に気づかれたらどうしよう!? どうする? どうする!?
「だ、大丈夫! ほ、ほら、ほとんど痛くないし!」
慌てて腕を振ると、何かにつまずいたようにヨロッとバランスを崩した。
「おっと――」
「あっ!」
気づけば、ベルナルドの腕の中にいた。
(……え?)
腕の中にすっぽりと収まり、見上げた先には、至近距離のベルナルドの顔。
(ち、近い!!)
驚きと動揺で、シエルの頭は一瞬真っ白になった。
ベルナルドは困ったように微笑む。
「お前、無理してないか?」
「~~っ!」
何か返そうとするけれど、思考がまとまらない。
ベルナルドはそのままシエルを軽く支えながら、小さく呟いた。
「……やっぱり、血の気がないな」
(ひぃぃぃぃぃ!!!!!)
彼の目が、じっとシエルの顔を見つめる。
(や、やばい、これ絶対に疑われてる!!)
なんとかしてこの場を切り抜けないと――!