9.踊り子の時間2
出番が始まる直前に、ミルシュカの控え室へ豪商モスコミュールが現れた。
ミルシュカの手を脂汗でいっぱいの掌で包み、ねっとりした笑みを浮かべる彼の目つきに、怖気が走る。
「ミル、今夜は話を受けてくれたそうだねぇ」
受けたのは座長である。ミルシュカは言い渡されただけ。
茶を濁すように曖昧に口元を上げた。
夜には相手をするのだから、それまでは普段通りに過ごさせてほしい。
「おっと、今日は私にとっても大事な賓客をつれてきていてねえ。そちらも放ってはおけないのだ、すまないね。また後で」
モスコミュールは転がるように、体を揺らして客席に向かう。
その彼の行く手を見て、ミルシュカは仰天した。
榛色の頭をした長身の人物。見覚えがある。
かつて毛嫌いしあって、最後まで何かと嫌味の応酬をしてぶつかっていた、セレスタイト伯爵エリアスその人だ。
(セレスタイト卿!? なぜ彼のような者がこんな下賎の見せ物に!?)
こんな悪所に来るのも意外だったし、久方ぶりに見たエリアスは記憶にある彼よりすさんでいて、二重の意味で驚いた。
王都で貴族や令嬢たちから『凍てついた氷の薔薇』と言われていた、凛として触れ難いほど冴えていた姿。
それが。今の彼ときたら襟元は緩く開いて乱れ、虚な目をしており、覇気なく歩いている。
日中からかなり酒を飲んでいるのではないだろうか?
あれでは溶けゆく氷の薔薇だ。
(セレスタイト卿が、酒を入れて出歩いているところなんて、はじめて見た……)
戦地の任務でも、王城でも常に品行方正。
嫌味ではあったが忠誠心の高さや、礼儀正しく整った所作は見倣うところのある貴公子だったのに。
ここ一年、知らなかった間に変わってしまったのか、と考えてミルシュカは己の身を嗤った。
(人のことなど言えないな、私こそ場末の踊り子になって、そのうえモスコミュール殿に体を売られて今夜は彼の相手をするのだから)
ふと、エリアスがモスコミュールと一座の中に入っていったことが気にかかった。
(あの二人、観客席に行ったということは……セレスタイト卿が私の踊りを見るということか!)
バクバクと心拍数があがって、胸が痛くなった。
今日は心理的な負荷が大きすぎる。
いっそ心臓を壊してこの場で倒れ、死んでしまえたらいいのにと思うほど。
(……でも、今の私は顔も髪も元のミルシュカに見えないはずだし、大丈夫だ。落ちぶれていて剣舞を踊っても、見知らぬ踊り子としか思われないんだから、大丈夫)
記憶の遠いところで何かが引っかかる感じがしたが、動揺から頭が混乱しているせいだろう。
心を落ち着け、ミルシュカは踊りを披露するためステージへと上がる。
投げた剣の柄を再び宙でとり、くるくると回して振りながら腰も曲げる。
音楽に合わせて手足を流れるように動かすミルシュカだが、今日の舞台で注がれる視線の熱にたじろいでいた。
(なんだろう、まとわりつくように熱く見られている気がする)
夜にはミルシュカの体を貪る予定のモスコミュールだろうか?
楽しみの一環として、ミルシュカの舞をいやらしく観賞しているのかもしれない。
舞台から下がったミルシュカは、心の平静がなかったのにトチらず踊れたと、気を抜いて休む。
幕が閉じて客が掃けたところで、座長がミルシュカのところにやってきた。
「ミル、所有物をすべて持って裏口に来なさい。指定された場所まで送っていく」
持ち物をまとめさせるのが疑問だったが、きっと逃がさず、確実に届けるためだろう。
ミルシュカ個人の所有物はほとんどない。下げ鞄一つと、剣舞用の剣だけ持って裏口に行き、座長の後をついていった。
到着したのは格式の高い宿屋だった。
ロビーを踊り子の衣装で歩くのはいくらか気が引ける。
磨かれた木の床板は飴色をしていたし、廊下にかけられたタペストリーなども上品だ。
これがモスコミュールの選んだ宿だというのなら、それなりに趣味がいい。
指定された部屋がそこなのだろう、重厚な扉を開けたあと、ミルシュカを通し、座長が告げた。
「ここが今夜指定された部屋だ。ここでセレスタイト伯爵の到着を待ちなさい」
(……そう、今夜ここでセレスタイト卿を)
はたと、言われた内容に仰天し、ミルシュカは座長に喰らいつくように訊ねる。
「セレスタイト卿!? 座長! モスコミュール殿って言っていましたよね? どういうことですか!?」
座長がミルシュカに説明する。
「お二人の間でやりとりがあって、交代されたそうだ。それどころかセレスタイト伯爵からは過分なほど代金を払っていただいた。今後しっかりあの方にお仕えしなさい」
「ちょっと、待ってください座長!」
袖をつかんで座長に追いすがったミルシュカだが、あっさりと振り払われた。
「モスコミュール殿ではなくセレスタイト伯爵なのだぞ? あれなら娘受けが良いことだろうし、なにも問題ないだろう。もう少しでこちらにお越しになるはずだ。ここでしかと待つように」
閉じられた扉はそれきり開かなかった。
(問題ないだろうって……大ありに決まっている!)
娘受けするとかどうのという話ではなく、知り合いなのだ。
それも犬猿の仲の。
(落ちぶれた末、セレスタイト卿に買われるなんて、最悪だ)