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8.踊り子の時間

 ミルシュカはひび割れた姿見の前で、身だしなみを整える。


 枝毛まみれの髪はくすんだ茶色。

 鏡の向こうから見返してくる瞳は灰色で、鼻先から外側にむけて無数のそばかすが濃く散っている。それは白粉をはたいても、うっすらと透けた。


 この姿が鏡に映るようになってもう一年近く、今では元の自分の姿の方が夢だったように思える。

 肩紐を下ろし、丸裸の胸を出す。

 ここには魔封じ紋というものがあるはずなのだが、ミルシュカには見えない。

 なんの変哲もない地肌である。

 呪われた証拠があれば、解く手助けをする人間が出ると警戒されたのか。

 魔封じ紋も姿と同じく歪められ、隠されたようだ。

 見えもしない以上、なんとかしようにも、お手上げだった。


 与えられている衣装を着て、鏡の前でくるりと一周すると、半透明の腰布がふんわり浮かんだ。

 これから全周囲を人目に出すのだから、不備がないことをよく確かめる。

 仕上げにベールとサークレットをつけて、見せ物一座の踊り子の姿が完成した。


 今のミルシュカは『ミル』。マルーク王国の各地を巡る、見せ物一座の一員である。


 木箱に詰められ得体の知れない馬車に運ばれたミルシュカは、遠い地の貧民窟に放り出された。

 様々な危機があったが、剣や爆炎魔法がなくとも体術だけは頼りにできた。

 治安の悪い土地でも、身のこなしだけで、追い剥ぎや身体目当ての荒くれ者などを避けてこられた。


 空腹が限界に達した頃、興行する見せ物一座を見かけ、入れてもらえるよう頼み込んだ。

 雑用の予定であったが、小道具の中に刃のつぶれた剣があり、得意の剣技の流れを取り入れて舞えば、一芸として認めてもらえ、それからは剣舞を披露している。


 辺境伯とは雲泥の差の生活だ。しかし、今のミルシュカには容姿も身分も魔力も家族もない。

 食事にありつくことができるだけで満足するべき日々だった。


 

◇◇



「ねえ、またあのギトギトした商人がきてるわよ」


「座長となに交渉してるのかしら。気色わるぅ~」


 一座の新米の娘たちが、座長と来客の会話に気を尖らせていた。


「あんなに通い詰めるなんて、理由は一つでしょ。誰かの色を買う気よ、アイツ」


「え、でも座長は『一座の女に色を売らせる気はない』って言ってたわよ」


 そうだ、ミルシュカも座長のその点は尊敬している。

 ほかの町で幾度か、ミルシュカの体つきを気に入って取引を持ちかける者もいたが、いつも座長は断ってくれていた。


「ばっかねえ、値が折り合わなかっただけでしょ。座長はそういうとき何度か断って、代金を釣り上げるのよ。古株にはもう、何人か客を取らされた人がいるんだから」


 立ち聞きしてしまったことを後悔する。

 前にミルシュカにきた話が流れたのは、座長の気概というより、金銭の折り合いがつかなかっただけではないのか? 疑念が胸に忍び込んできた。

 娘たちに話の輪に入る気もないし、これ以上の会話を聞きたくなくて、ミルシュカは一座のテントの裏に出る。


「ミル」


 テントの裏で剣舞の準備運動をしていれば、呼びかけられた。


「座長」


 髪と同じ黒いシルクハットにそろいの上下を着た、小綺麗な中年がミルシュカのいる一座の座長だ。

 食事の配分も、きつい裏方仕事を誰に回すかも、この人の胸ひとつなので、接するときはどうにも緊張してしまう。

 その座長は、周囲にほかの人員がいないか見回し、そっとミルシュカに話はじめる。


「ミル、連日通ってくれているモスコミュール殿は知っているね?」


「……商人の方ですね」


 座長、商人、二人だけの会話。

 嫌な予感にミルシュカの背に冷や汗が伝う。


「豪商だよ。興行中のここ、セレスタイト領では指折りの権力をもつ豪商だ。彼が、今夜お前の時間を買いたいと言っている」


「……時間、ですか?」


「お前の剣舞を見込んだそうだ。今夜は彼の用意した宿の部屋で、衣装を一枚一枚脱ぎながら舞えと。そのあとも彼に従うようにご指名だ。私は代金を受け取った。今夜は宿まで送るから、そのつもりでいなさい」


 なんと、座長はミルシュカの意思など関係なく、すでに取引を済ませてしまっていた。

 これはあくまで覚悟を固めておくよう、念を押しにきただけとわかって膝が小刻みに揺れる。

 座長が去ったあと、我慢できずに膝をついた。


 とうとう、体を売り物にされる日が来てしまった。

 辺境伯だったときには考えもしなかった事態。


 脚に砂粒がめり込んでいるはずだが、麻痺してしまって痛みを感じない。

 それほどミルシュカは放心していた。

 我を取り戻した頃には、空が薄紫に変わっていた。

 もう夕刻、公演の時間が近い。

 出番が来たら、舞を踊って、そして公演が終わったらモスコミュールに──。


(生きていくためには仕方ない。体を売り物にされても、誇りだけは忘れない)


 舞踏用の剣を振り、ミルシュカは、不安の名残を斬り捨てた。


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