6.緑の領地
古びた木枠の窓を開けると、森を通ってきた風が入ってミルシュカの髪をすり抜けていった。
五月の領地は美しい。
萌ゆる緑は生命力あふれる、鮮やかなイエローグリーン。
葉も、草も、小麦畑の伸びた穂も、風を受け揺れて喜んでいるようだ。
鼻腔いっぱいに故郷の匂いを吸う。
(帰ってきた……)
背を伸ばしていると、部屋にレイモンドが入ってきた。
「ミルシュカ、本当に今から農夫たちの陳情を聞きに行くのかい? 治水の調査結果の説得も。帰ったばかりなのに働きすぎじゃないか?」
「長く空けてたからな。代官はよくやってくれていたが、みんなの希望を直に聞きたいんだ」
「でも、明日が結婚式なんだよ」
手を広げて近づくレイモンドに、ミルシュカは笑いかけた。
「だったら明日は動けないからな、余計に今日やらなければ」
抱き締めようとしてきたレイモンドをひらりと避け、ミルシュカは外へ出て、馬車に駆け寄る。
馬車に乗る前に、さっきまでいた書斎の窓を見れば、窓から顔を出したレイモンドが手を振って見送ってくれていた。
「早めに帰る! 式次第の確認でもしていてくれ」
仕事熱心なミルシュカに、レイモンドは苦笑しているようだった。
馬車に揺られて、ミルシュカはレイモンドの抱擁を避けられたことに胸を撫で下ろしていた。
これまで、男性経験というものがさっぱりない人生だった。レイモンドのスキンシップを素直に受け入れられない。
肩を抱かれるまでがせいぜいで、正面から抱きしめられるのも、照れて体がこそばゆくなりそうだし、その先は……まだまだ考えることもろくにできない。
(明日が結婚式……初夜を過ごせば、気恥ずかしくなくなるだろう。きっと自然に受け入れられるようになるはず)
だから今日までは、照れてしまう心のままに。
明後日にもなればミルシュカのほうからレイモンドを抱きしめるくらいになる。
そう信じて、ミルシュカは馬車の行く手に意識を切り替えた。
◇◇
ミルシュカは風がよく渡る、段々畑の連なる土地に到着した。
「これは領主様、ご帰還とご結婚おめでとうございます!」
農地で作業中の農夫たちが集まって、ミルシュカを囲む。皆、口々にミルシュカとレイモンドの結婚を祝福してくれた。
「みんな、ありがとう。王都にいた間は不便をかけた」
「いえいえ、こちらこそ。領主様は明日が結婚式なのに、こんなところまで来てよろしいんでしょうか?」
ミルシュカは破顔してうなずいた。
「もちろんいいさ。参列してくれるみんなの明日を、式でつぶすのが申し訳ないくらいだ。この時期忙しいだろうに」
視線を落とすミルシュカに、年嵩の女性が言う。
「参列するのは当然です! 亡き前領主ご夫妻に代わって、私たちが領主様のご結婚を見守らなければ」
ミルシュカの両親はすでにない。
前領主夫妻にとって、ミルシュカが遅くにやっと授かった跡取りだった。
母は産後数年寝ついていたが、そのまま回復せず亡くなった。
男手ひとつでミルシュカを育て、唯一の家族だった前スペルサッティン辺境伯も、ミルシュカが王都で騎士の義務に就いていた三年前、六十半ばで心臓発作を起こし、急逝した。
兄弟がいないので、家族が誰もいなくなったミルシュカは、領民達になにかと気にかけてもらってきた。
家族のないここ三年は味気なかったが、父が決めてくれていた許嫁が、明日からミルシュカの家族になってくれる。
領民たちとこのスペルサッティンを盛り立てて、やがてつくる家族も含め、賑やかに楽しく過ごしていけるはず。それを思うと、ますます領主として働きたくなるというものだ。
「おーい領主様! こっちに農地開拓の時に出てきたデカい岩があって、運び出すのも大変なので一つお願いしていいですかーい!」
離れたところから頼まれて見れば、ミルシュカを呼んだ農夫の奥に、大人の身長ほどある岩があった。
ミルシュカは農夫に手を振って大声で応える。
「わかった! 危ないから退いててくれ!」
農夫の退避を確認して、ミルシュカは魔力を手に集め、現した火炎の種を離れた岩の方へ投げつける。
「爆炎!!」
爆発と同時に手を握り込み、破片が周囲に散らず中心に収束するよう抑え込む。これで爆裂が減じて、破片が飛び散ることを抑えられる。
「うわー、かっけー。領主様、おれも爆炎使いたいんだけど」
十代半ばの男の子に言われて、ミルシュカは申し訳なさに声を落として説く。
「爆炎は、血筋で使えるか決まる家系魔法なんだ……、貴族の家は家系魔法で貢献して爵位と領地をもらったところがほとんどだから、貴族が使っている魔法は家系魔法と見て間違いない。爆炎も、スペルサッティン辺境伯シュトライク家の血が流れてなければできない」
「ちぇー、じゃあおれ魔法使えねーじゃん面白くねー」
不貞腐れる少年をミルシュカは励ます。
「そんなことないぞ、他に勉学で身につく魔法もあるからな。大概が呪文や、魔法を発動させるための紋や陣が必要になるから素養だけでなく覚えて準備する必要がある。だが、使いたければ努力で手に入れられる魔法はあるんだ」
「でも農民の子じゃ魔法なんて勉強できねーじゃん」
ミルシュカは否定の意思を込めて首を振った。領主を継いでから力を入れている事業があるからだ。
「スペルサッティン辺境伯家では優秀で希望する者に王都の学校へ学びに行く支援をしている。少ない枠だが、道はあるんだ。望むなら目指してほしい」
幼い憧れを折らずにすんだ。
少年がやる気を出して「さっそく勉強だ」と走り出すから、手を振ってミルシュカは彼を見送った。
そして、農村の集会所に目をやる。
そろそろ集まった農夫から陳情を聞きにいく時間だ。
◇◇
領主としてよく働いた一日を過ごし、ついに迎えた結婚の朝。
ミルシュカはウエディングドレスを身につけ、神父の前に歩み出た。
両肩を出し、胸元から腕にレースがかかる、切り替えのないすっきりとした意匠のドレス。
その裾は膝の上ですぼまり、足先に向けて控えめに向けて広がる。
脚部分を尾鰭のように見せることから、伝説を知る者なら船乗りを惑わす人魚のようだとたとえることだろう。
赤い髪に白百合で出来た飾りと、真珠玉を縫い留めたベールを被り、手に暁空色の薔薇で作ったブーケを持つ。
ブーケをまとめるリボンはミルシュカの瞳と同じ、緑が選ばれた。
「領主様結婚おめでとうございます!」
「辺境伯夫妻に幸多からんことを!」
参列の領民がバージンロードの左右を固めており、フラワーシャワーが撒かれた。
教会の扉が開き、重厚な音がする。
新郎レイモンドの登場だ。
彼は黒い癖毛を撫で付けて固め、荒々しい自然と渡りあっていけそうな、はち切れんばかりの筋肉を真っ白な式服に押し込んでいた。
健康的で、輝く白い歯を見せて微笑う、さまになった新郎ぶりである。
ステンドグラスの七色の影がミルシュカの上に落ち、純白のドレスを色鮮やかに染めた。
歩いてくるレイモンドを粛々と迎え、ミルシュカは神父による誓いを口にする。
ファーストキスがまだなミルシュカに配慮したのか、レイモンドは誓いのキスをミルシュカの額に行い、式は厳かに終わった。
あとの花嫁の勤めといえば、夜の初夜である。