ミッシングリンク
50年前の大衝突は、人類史上最悪と言っても過言ではない大災害であった。だから当時の記録を紐解けば、殆どが異世界人と魔法のことばかりが書かれていて、他の細々とした政治的な議論は歴史の影に葬り去られてきた。
そのころあった経済危機や世界規模のインフレ、貧困問題、中東や東欧での戦争、そしてそれまでは熱心に議論されていた地球温暖化などは、これを境に殆ど聞かれなくなってしまった。みんなそれどころじゃなくなったからだ。
そんな忘れ去られた問題の中には、マイクロプラスチックの海洋汚染問題があった。
20世紀に入り高分子工業が発達してから、世界各国は整形しやすく腐食に強いプラスチックを大量生産し続けてきた。腐食に強いとはつまり自然には分解されないということで、プラスチックごみを何も処理せずに捨てたら、永久に残り続けてしまう。
ちゃんと熱処理して投棄すれば問題ないとされてきたが、実際には燃えカスの中に微粒子レベルで残留するプラスチックは多く、21世紀にもなるとそれらの海洋汚染は深刻になっていた。実際に当時の人間は何か海産物を口にすれば、必ずマイクロプラスチックも一緒に食べていたのである。
なので、この汚染を無くそうと各国が取り組み始めていた。それが大災害を期にまったく聞かれなくなったのは、先にも述べた通り、それどころじゃなくなったから……ではなく、ちょうどその頃、マイクロプラスチックを消化分解する能力を持つプランクトンが発見されたからだった。
この新種のプランクトンは瞬く間に世界中の海へと広まっていき、人類が1世紀かけて蓄積してきた汚染をあっという間に解決してしまった。だから人類はもうマイクロプラスチック問題を語る必要がなくなってしまったのだ。
時が流れて、それから20年後、中米メキシコで鎖国を続けていた異世界国家オレリアス帝国は、少しずつ地球文明との交流を受け入れ始めた。そうして発見されたのが、今現在、軌道エレベーター建設に欠かせないカーボンナノチューブを生産する昆虫、通称ナノワームである。
今ではお蚕様とも呼ばれ親しまれているそれらは、地球の生態系には存在するはずがない、異世界由来の生物であることが判明している。実は50年前の大衝突時に異世界から渡って来たのは、異世界人だけではなく、このような昆虫や微生物も含まれていたのだ。
話を戻すが、マイクロプラスチックを消化するプランクトンも、実は異世界由来だったのではないかと今では考えられている。
というのも、このプランクトンがどうやって進化したのかは謎なのである。ある種の珪藻類から派生したと考えられているが、どのような進化を辿ればここに至るのかは全く判明していない。明らかなミッシングリンクが存在するのだ。
太古の地球に植物が誕生してからしばらくの間、地球はこの新種の生命を分解する能力を持たなかった。故に、その当時の植物の死骸は地層のように積み重なって、今も地中深くに眠っている。これが石炭や石油の層であるが、自然選択がこのエネルギーを消化する仕組みを生み出すまでには、実に数億年の年月が必要だったのだ。ところが、プラスチックを分解する生物はたった100年で誕生している。そんなことがあり得るだろうか。
以上がかのプランクトンが異世界由来であるという根拠であるが……しかし、もしもそうであるならば、どうしてこのような生物が異世界には存在したのだろうか。異世界の文明はせいぜい地球の中世レベルで、重化学工業はまだ興ってもいなかった。このプランクトンの能力は現代の地球にとっては貴重でも、合成樹脂が存在しない異世界では無用の長物なのである。
そう考えると、ナノワームもそうだ。どうしてこのような生物があちらで誕生したのだろうか。実際、異世界にはナノワームの吐き出す糸を分解できる生物は存在せず、広がり続ける汚染に異世界人たちは頭を悩ませていた。こちらではお蚕様でも、あちらではシロアリ扱いだったのだ。このような生物が異世界に由来するのは不可解である。
だがもし、これらが未来のテクノロジーであると仮定したら……?
シュレーディンガーは著書の中で、生命とはエントロピー増大の法則に逆らい、負のエントロピーを接種することによって崩壊を防いでいる存在であると主張した。
あらゆる物質は時間経過するにつれて崩壊し平衡状態(もうこれ以上は変化しない状態)になる傾向があるが、生命はエネルギー(負のエントロピー)を使ってその崩壊を防ぎ、現在の姿を保っていられる存在だと彼は言っているわけだ。
簡単な例を挙げてみよう。バスタブに張った水をぐるぐるとかき混ぜれば、水は波打ってゆらゆらと揺れ動く。その状態でかき混ぜるのを止めて時間が経過すれば、波は収まり、元の静謐な水面に戻るだろう。これが平衡状態だ。
この状態で今度はバスタブの栓を抜いてみれば、開いた穴から水が流れ出しバスタブの水はぐるぐると渦を描き出す。そのまま放っておけば、やがてバスタブの水は全部流れ出し、渦は消える。これもまた一つの平衡状態である。
ところで、水が渦を描いている時、もしも流れ出す水と同量の水をバスタブに注ぎ続けていたらどうなるだろうか? この場合、バスタブの水は渦を巻いた状態を保ち続けるのだ。
水というエネルギーを注ぎ続けている限り、バスタブの水は平衡状態へは至らず、渦という構造が維持され続ける。こういう状態を散逸構造と呼ぶが、生命もまた一種の散逸構造なのである。私たち人間は、食べ物というエネルギーを接種することによって、細胞分裂を繰り返し血液を循環させ、クエン酸回路は自動的に回り続け、そうやって体を維持し続けている存在というわけだ。
突き詰めれば、地球上のあらゆる生命は、全てが太陽エネルギーを受け取ってその構造を維持している散逸構造である。食物連鎖の頂点に立つ動物も、光合成によって成長する植物や、もしくはそれを捕食する動物を食べて生きている。基本的には太陽が輝き続ける限り、生態系は維持され続けるだろう。太陽光は、バスタブに注がれ続ける水なのだ。
ところで、人間のような知的生命体は、この地球上に届くエネルギーを活用して、新たなエントロピーを生み出しているとも考えられる。例えば、地中深くに埋もれていた石炭や石油は、本来であれば太陽が地球を飲み込むまで、殆ど全てがそのまま残っていたことだろう。
ところが、人間はそれを掘り起こしてエネルギーとして利用し、一瞬にして平衡状態に変えてしまっている。こう考えると、人間は生命でありながらエントロピーの増大を加速させる役を担っているとも考えられるわけだ。
太陽から発したエネルギーは、もしも地球に届かなければ、そのまま宇宙を飛び続け、気が遠くなるような年月を経て平衡状態へと至るはずだった。ところが、たまたま地球に到達した光は、そこで瞬時に人間によって消費され、平衡状態に変えられる運命にあるのだ。
このまま平和が続き、科学が発展し続ければ、行く行くは人類は宇宙へ飛び出し、太陽全体をダイソン球で覆い、余すことなく全てのエネルギーを利用する存在へと進化するだろう。
だが、今のところ人間は、まだ太陽エネルギーを十分に活用し切れているとは言えない。そもそも地球に届かない光は活用出来ないし、届いていても捕まえることが出来ないニュートリノのような物質も存在する。
しかし、もしも知的生命体が想像通りのものであれば、いずれはこれらのエネルギーも活用するようになるだろう。人間は、いつかニュートリノをもエネルギーとして利用することが出来る生命に進化する過程にあるのだ。
では、ルナリアンは?
ルナリアンは既にニュートリノを魔法エネルギーとして活用している。我々がまだ制御することすら出来ない重力場を、マジックフィールドとして展開している。彼らは非常に長命であり、聞くところに拠ると、病気と事故以外で死ぬことはないらしい。ルナリアンは過去のあらゆる為政者が夢見た不老不死である可能性さえあるのだ。
そして先も言及したナノワームとプラスチックを分解するプランクトン。以上を踏まえると、実はルナリアンは、現生の地球人類よりも、ずっと高度な文明を築いていたのではないか?
もちろん、実際に調査したところ、彼らの文明レベルは非常に低かった。彼らのあちらでも生活は、せいぜい欧州の中世くらいだったようである。しかし、欧州も中世に至る前には、ローマ帝国という高度な文明を築いていたではないか。
悠久の時を生きる彼らには、過去はあまりに遠すぎて、現実味がないように映るという。だからだろうか、彼らはあまり歴史を重んじていない。なので、過去に何があったかは不明である。しかし、現在は他愛のないものと放置されているが、彼らの世界からの漂着物は、調査に値するのではないか。今後、より広範囲の調査を望みたいものである。
例えば、月とか。
***
教授のコラムはここで終わっている。なかなか興味深くもあったが、なんというか、若い研究者が書いたらトンデモ扱いされそうな内容だった。有理は学会誌を閉じると、ふう~とため息を吐いた。
しかし、地球より高度な文明か……アーサー・C・クラークは、十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかないと言った。それを表すかのように、ルナリアンの魔法は実際かなりの部分が科学によって解明されている。そして解明された結果、現在の地球文明では扱えない代物であることもまた判明していた。だから第2世代魔法の研究が急がれていたわけだが……
高度といえば、あの森の国を思い出す。基本的には中世並みの町並みだったが、あの中央の軌道エレベーターと、外苑を取り巻く魔物の雲、そして、月だと思っていたのがもしも地球だったとしたら……?
「物部さん。コーヒー、冷めちゃいますよ」
考え事をしていたら、突然声を掛けられて、有理はハッと我に返った。見れば彼の目の前には、いつの間にか運ばれてきていたコーヒーカップが置かれている。どうやら、里咲が入れてきてくれたようだ。
「声を掛けたけど反応がなかったから、そのまま置いときました」
「ゴメン、気づかなかった」
「入れ直して来ましょうか?」
「いや、いただくよ」
有理は慌ててコーヒーを口にした。生ぬるくて、とても苦い。
「何か面白い記事でも載ってたんですか。すごい集中してたけど」
「ああ、お世話になってる教授のコラムが載ってたもんでね、つい」
「へえ、どんな内容です?」
「色々あるけど……ルナリアンってイモータルの可能性があるんだってね。そう言えば桜子さんとはそういう話はしてこなかったけど、冷静に考えると凄いよな。彼女っていくつなんだろうか」
「桜子さんって……ああ、あのアストリアに似てる人」
「いやアストリアの方が似てるんだと思うけど……って、あれ? どっちなんだろう?」
そう言えば、どうしてアストリアと桜子さんは似てるんだろう。今ここにいるアストリアも、そしてあの森の国で見たアストリアも。
「cpoklrsxaip! hgtmfrsalkurisa!!」
有理が漠然とそんな事を考えていると、当の本人がやって来て、何やら騒がしく話しかけてきた。突然、どうしたんだろう? と思いもしたが、相変わらず何を言っているのかが分からない。
「なに? 一緒に来てほしいの?」
「wioznmytivowkr」
よく分からなかったが、腕をグイグイ引っ張るので立ち上がると、そのまま強引に研究室まで連れてこられた。
そうして研究室まで戻ってきた有理は、モニターの方ではなく、サーバーラックの方へと引っ張って行かれた。てっきりパソコンがエラーでも起こしたのかなと思っていたが、どうもそうじゃないらしい。
一体彼女は何がしたいのだろうか。首をひねっていると、彼女はとあるサーバーラックの前で止まり、それを指さしながらまた何やら騒ぎ始めた。
「opcrolwprp!!」
「これがなんだっつーのよ……ん?」
その指差す先をよく見てみれば、一台のサーバーのシリアルポートに見慣れない器具が取り付けてあるのを発見した。どうやらUSBメモリらしいが、こんなものを付けた覚えはなかったし、そもそも、付ける必要性すらなかった。
「もしかして……これって米軍の置き土産か?」
思いつくのはその可能性しかない。確かUSBデバイスの脆弱性を突いた攻撃があったはずである。米軍は、研究室に入るとこいつを取り付けてシステムを乗っ取ろうとしたのだ。
なら、これが今回の元凶なのだろうか……? それは詳しく解析してみなければ分からないが、少なくとも身に覚えのない機械をいつまでも取り付けておく必要はないだろう。
「こんにゃろ!」
有理はポートからUSBメモリを引っこ抜くと、何が入っているのか調べようとして、それを持って端末の方へと歩き出した。
と、その時、急にぐるぐると目眩がしたような気がして、立ち止まると視界がぐにゃりと歪んで、気がつけば有理は上下感覚を失っていた。
膝をつき、四つん這いになって振り返れば、そこには波間に揺れるクラゲみたいにゆらゆらと歪んだ里咲の姿があって、彼女も同じ感覚を味わってるのか、慌てた感じに何かを叫んでいるようだった。
しかし彼女の声はもう聞こえないし、こっちの声も伝わっていないらしい。後悔しても後の祭りで、有理はぐにゃぐにゃと歪んでいく世界の中で、徐々に視界が暗転していくのを感じながら、やがて彼の意識はぷっつりと途絶えた。




