僕たちしかいない世界
ツルツルしている学校机の天板に頬杖を突きながら、有理はほわわほわわと大きな欠伸をかました。
教室のあちこちからはギャーギャーとうるさい生徒たちの声が聞こえてきて、隣の席では関が何か内職をしながら教室の隅の友達に向かってでっかい声で話している。そのざわつきは不快ではあったが、これこそ学校だよなという懐かしさもあり、寝ぼけ眼のぼやけた視線で黒板を眺めながら、それにしても担任の鈴木は遅すぎる、いつまで人を待たせるつもりだと、一向に始まらない朝礼をまだかまだかと待っている時だった。
突然、バンッ!! っと、大きな音を立てて教室の前方のドアが開いた。その音に一瞬、教室は静まり返ったが、すぐにまた元通りのギャーギャーした騒音に包まれた。やって来たのは生徒会長の椋露地マナで、このフロアでは滅多に見ない意外な人物の登場に、半分の者は興味を抱き、半分の者は眼中になかったが……
そんな彼女は教室内に有理の姿を認めるとズカズカと中に入ってきて、
「良かった、居た! 物部、大変なのよ!」
「えーっと、何が?」
「あんた、まだ気づいていないの? いいから、まずは外を見てみてよ!」
マナからはどこか切羽詰まったような必死な感じが伝わってくる。どうしたんだろう? と思っていると、同じように彼女の様子を変に思った別のクラスメートが、言われた通りに窓を開けて外を見るなり、
「何だこれ!?」
と素っ頓狂な声をあげた。
その声に釣られた数人が同じように窓の外を覗き込んでは、これまた同じような驚きの声を上げていた。有理もまた同級生たちに混じって空を見上げて、同じようなリアクションをした。何しろこの暑さだから、教室の窓は全部閉めて切っていて、カーテンも引かれていたから気づかなかったが、見れば空の色が生まれてこの方見たことないような色をしていたのだ。
それは例えるならセピア色の空だった。空が経年劣化でくすんでしまったかのようだ。どうしたらこんな色になるのだろうか、その気象条件はさっぱり思いつかなかった。例え核戦争で世界が滅びたって、きっとこんな色にはならないだろう。
そして異変はそれだけではなかった。乗り出すようにして窓の外を眺めていたクラスメートの誰かが気づいた。よく聞くと蝉の声がしないのだ。今朝はあれだけ鳴いていたというのに、まるで一瞬にして冬が来てしまったかのような静けさだった。
そして静かなのは校舎の外だけではなかった。改めて意識してみると、校舎内もどことなく静かなのだ。いや、静かどころではない、まるで人が居なくなったかのような静寂が広がっていた。
おかしいと思った有理が後ろの壁……隣の教室の方へ目をやると、同じように感じていたらしい張偉と目が合った。彼はこちらへ頷き返すと、そのまま教室の後ろのドアから廊下へ出ていった。有理も彼を追いかけて廊下へ出ると、あとからマナがついて来た。
「もう気づいてると思うけど、校舎内のどこにも人が居ないのよ」
「どうなってるの?」
「私にも分からないわよ。あんたたちの声が聞こえてきた時は逆に驚いたくらいで」
「物部さん、駄目だ」
隣、そのまた隣の教室と確認していた張偉が、戻ってきながら首を振る。有理も隣の教室を覗き込んで、人がいないことを確認していると背後から関の声が聞こえてきて、
「もうみんな講堂に行ったんじゃねえの? 今日、終業式だろ」
振り返ると関だけではなく、クラスメートほぼ全員が廊下に出ていた。彼らも異変に気づいて不安そうな表情を浮かべている。マナは関に向かって、
「私は物部に用事があって、その講堂の方から来たのよ。ここまで来る途中に異変に気づいて、全部の教室を確かめてきたけど、どこにも人はいなかったわ。逆にあんたたちの声だけは聞こえてきたから、急いで来たってわけ」
「俺に用事って?」
「そうだったわ……あー、もう、何から説明すればいいのか……」
彼女は苛立たしそうに自分の親指の爪を噛んでいる。普段通り落ち着いて見えるが、実は相当テンパっているようだ。有理がそんな彼女が落ち着くのを待ってから続きを促すと、
「米軍が学校に??」
あまりに想定外の事実に思わず声が裏返る。マナは頷いて、
「生徒会のみんなと集会の準備をしてたら急に外が騒がしくなってね? 講堂を出たら研究所の周りを見慣れない車が囲んでたの。それで様子を見に行ったら軍服のアメリカ兵と桜子さんが居て、何があったのか聞いてみたら、何か慌てた感じに、このことをあんたに伝えて欲しいって頼まれちゃって」
「俺に? 何だって?」
「分からないわよ。私はとにかくあんたに伝えてって頼まれただけなの。まともじゃないことだけは確かだったから、すぐ言われた通り走り出したんだけど……そしたら背後から銃声が聞こえてきて……」
「銃声!?」
その言葉に有理だけでなく、それを聞いていたクラスメートたちもどよめいた。流石に事態が深刻である事に気づいた彼らが見守る中、マナは続けて、
「振り返ってみたけど、何と戦ってるかは分からなかった。私が行ったところでどうしようもないし、とにかくあんたにこのことを伝えようと駆けてきたんだけど、その途中でやけに周りが静かだなって思って……気づいたらこうなってたわけ」
「俺たち以外には本当に誰もいなかったのか?」
「少なくとも私が通ってきたところには……というか、空がこんな色をしてるくらいだし、あまり期待できないと思うわ」
彼女が答えると、クラスメートたちもさっきのことを思い出したのか一斉にどよめき始めた。動揺が伝わってくるかのような緊迫した空気の中で、腕組みをして考え込んでいた張偉は、
「……生徒会長のことを疑うわけじゃないが、ここは手分けして、他にも誰か居ないか確かめた方がいいな」
「そうね、私もそう思うわ」
「少なくとも、学校の敷地内は全部見て回ろう。物部さんもそれでいいか?」
「え? ああ、俺はもちろん」
有理が頷くと、張偉はクラスメートたちに同じことを提案し、言葉が通じない中国人グループにも事情を説明し始めた。
***
そして、1時間後に教室へ戻るという約束をしてから、適当に仲が良い者同士で集まって、クラスメートたちは学校のあちこちへと散らばっていった。有理は張偉とマナと連れ立って、事の発端でもある研究所を調べることにした。
道すがら、他の教室や職員室を覗いてみたが、本当に人っ子一人いないようだった。校舎を出て研究所の方へと向かっていったら、その周りを取り囲むように、見慣れない装甲車が何台も止まっているのが見えた。どうやらマナの言う通り、本当に米軍が来ていたらしい。
つい先日、そのアメリカからハッキングを受けた身ではあったが……本当に、ただの一般人相手にここまでやるのか? と半ば呆れつつ、装甲車の狭い窓から中を覗き込み、誰も乗っていないことを確認してから、改めて研究所の方を振り返る。
研究所も校舎と同様に静まり返っていて、人の気配はしなかった。まだ電気は通じているらしく、玄関に立ったら自動ドアがスーッと開いた。中に入ってみてもやはり人の姿はどこにもなく、エントランスホールは耳鳴りみたいに空調の音が響いていた。もちろん有理の研究室も覗いてみたが、一見して何か起きたようには見えず、マナが言っていたような人が争っていた形跡も見つからなかった。
一応、他のフロアも確かめてみようかと2階に上がってみたが、人っ子一人いない研究所の中は不気味で、声を掛けても返事はなく、特に変わった様子もないから、すぐに諦めて1階まで戻ってきた。なにしろこの建物、15階もあるのだ。とても全部は見て回れない。
その後、建物の周りを一周してみたが、正面玄関はもちろん、裏口に回っても、開いてる窓から中を覗いても、特に変わったものは何も見つからず、人が居なくなったことを除けば、研究所はいつものままだった。
「こりゃどうも……また魔法絡みのおかしな現象に巻き込まれたみたいだなあ」
「どうする? 他も見て回るか?」
「私は生徒会のみんなが気になるから、一度講堂に戻っていいかしら?」
「うっひょー! お宝発見! パイセンパイセン、ちょっと見てよ!」
有理たちが研究所の玄関前で話し合ってる時だった。三人の後を勝手についてきていた関が、装甲車の中で見つけた米軍の装備を引っ張り出してきて、迷彩柄のヘルメットを被り、アサルトライフルを構えてドヤっていた。
建物には目もくれずに、そっちばっかり気にしていると思ったら……しょうがねえ奴だなと思いつつ、彼が開け放した装甲車の後部ドアから中を覗き込んでみたら、よく見ればエンジンは掛けっぱなしだし、他の米兵の装備一式が転がっていた。
ざっと見る限り、米軍の装甲車は8台くらいあったが、これ全部が放置車両だとしたら、もしかしてこれは由々しき事態というやつではなかろうか?
「どうする、物部さん? 隠しておいたほうがいいんじゃないか?」
これがクラスの連中に知れたらマズイことになると考えたのであろう、張偉は眉間に皺を寄せて関のことを睨みつけていた。確かに関みたいなお調子者が殺傷力のある兵器を持ってると思うと夢見が悪いが、
「いや、ここも自衛隊の基地だから、隠したところで、他に見つける奴がでてくるだろう。どうせそうなるなら、いっそのこと全員に配って、お互い手を出しづらい状況にした方がいい」
「なるほど、そうかも知れないな」
「それより、エンジンが掛かったままの装甲車が放置されてることの方が気になる。訓練された兵士がこんなミスを犯すとは思えないし、まるでさっきまで誰かが乗っていたみたいじゃないか」
「確かに……そんな感じだな」
「椋露地さん、最後に見た時、アメリカ兵は何かと戦っていたんだよね?」
有理が尋ねるとマナは困ったような表情を見せ、
「はっきり見たわけじゃないけど、銃声は聞こえていたわ。それだけは間違いないと思う」
「……つまり、世界がおかしくなったのは、米兵が何かと戦い始めた直後と考えていいだろうね。そして、その何かは、研究所の中か」
しかし、その何かとは何だろうか? ここ数週間の動きからして、米軍の狙いがメリッサだったことは、恐らく間違いないだろう。しかし、ここは自衛隊の施設だということ以外は、普通の研究所で、米軍が発砲するような防衛設備があるわけじゃない。彼らは何と戦っていたんだ?
有理は研究所の自動ドアを開けたり閉めたりしながら、
「何と戦っていたかは分からないが……とりあえず、今ここで分かることはこれくらいか。となると、次にやることは一つっきゃない」
「一つって?」
「飯の確保だよ。もしも想像通りに、世界中の人たちが俺たちを残して消えてしまったのだとしたら、流通も止まってるってことだろ? この異変がいつまで続くか分からないけど、飯を作ってくれる人も、届けてくれる人も居ないんなら、自分たちでなんとかしなきゃなんないじゃん」
三人はお互いに顔を見合わせた。
「なんかパイセン、別人みたいに頼れるな」
「流石、異変慣れしてるな。もはやエキスパートと言っていい」
「嫌なエキスパートね……」
有理は苦笑しながら、
「ともかく、まずは学食に行って食料がないか調べてみよう。まだ時間も残ってるだろうから、その後は寮に戻って、あっちも見てみた方がいいな」
彼らはそれを確認するため歩き出した。




