アマゾンの奥地から南極大陸まで
研究所は2日連続でアタックを受けていた。今回の狙いはメリッサの記憶領域で、アメリカにあるサーバーを物理的に取り除くという強行手段に、有理もメリッサも有効な対抗策を見つけられず、いつ消されるかわからないデータを、まるでいたちごっこのように逃がす行動に終始していた。
追い詰められた有理に、桜子さんは宇宙港のサーバーに退避するよう提案したが、回線の細さを理由に一度は断ったものの、彼は不意に何かに気づいたように動きを止めて天井を見上げた。
そんな彼に、張偉が焦れったそうに尋ねた。
「どうした? 何か分かったのか?」
「盲点だった……普通、通信回線って有線の方が速いんだけど、宇宙では逆なんだ。エッジワースを使えば行けるかも知れない」
「……エッジワース?」
有理は頷いて、
「低軌道の衛星ブロードバンドサービスの一つだよ。軌道エレベーターが出来たことで、衛星の打ち上げコストがとんでもなく下がったことから、一時期、世界的に大流行したんだ。エッジワースは100基を超える衛星通信網で地球を囲って、アマゾンの奥地から南極大陸まで、空が見えるとこならどこでも高速通信を可能にするってサービスだ」
「ん、ああ、なんかそんなサービスがあるそうだな。軍事利用もされてるそうだが」
「まさにそれ。地球上どこでも使えるって言っても、結局、そういう使い方をする人は稀だから、有線と比べてコストも速度も劣れば見向きもされずに、あっという間に廃れてしまったんだ。エッジワースはその生き残りの一つなんだけど、これが去年、大規模な設備投資を行ったってニュースが流れた。携帯の海外ローミングの増強のためだって言ってたけど、彼らは宇宙港の開港を見越してたんだ。桜子さん。やっぱさっきのは無し。あんたの提案を受け入れて、宇宙港のサーバーを借りたいんだけど頼めるか?」
「すぐ実家に話をつけるわ」
「しかし物部さん。衛星通信を使うならアンテナはどこから調達するつもりだ? 無線LANや携帯電話とはわけが違うぞ?」
「それなら当てはあるんだ」
有理はそういうなり椅子ごとくるりと背後を振り返って、
「エッジワースはアメリカ企業が運営している、米軍御用達のインフラだ。だから当たり前のように、同盟国の自衛隊も採用している。宿院さん、いますぐここの基地司令に頼んで、装備を貸してもらえるように交渉してくれないか?」
「わかりました。やってみます。ここに持ってくるように頼めばいいんですか?」
「いや、違う。とにかく、ありったけのアンテナを空に向けてくれればそれでいい。そしたら、ここのアドレスにブラウザでアクセスしてくれ。ポート番号は……」
有理の指示で二人は慌ただしく動き始めた。
電話をかけにいった青葉は部屋を出ると守衛の詰め所に押しかけて、そこから直談判しているようだった。桜子さんも携帯であちこちに電話を入れて、地球人には聞き取れない異世界語で何かを話していた。その間、有理はメリッサの圧縮データを国内のレンタルサーバーに手当たり次第にぶち込み、張偉は目減りしていく預金口座を深刻そうな表情で見つめていた。
有理とメリッサの将来に賭けたが、これは後で経費として返ってくるんだろうか? もはや後には引けないぞと張偉が気を引き締めていると、外に行っていた青葉がまた慌ただしく駆け込んできて、
「物部さん、準備できました。ここが攻撃を受けてることを伝えたら、沖縄から北海道まで全部貸し出してやるって、憤慨してましたよ」
「ユーリ、こっちの準備もOKだよ」
その言葉に反応して、有理はキーボードをカチャカチャ、ターンッ! と景気よく鳴らすと、そのままフーっと溜息を吐いて、リクライニングチェアに体重を預けた。ギシギシいう椅子の音だけが部屋の中に響き渡る。
有理を除く三人は、暫くの間、そんな彼を邪魔しないようじっと息を潜めて見守っていたが、たっぷり1分くらいそうしていたところで、何やら様子が違うことに気づいた張偉が、
「……物部さん。もしかして、終わったのか?」
「ん? ああ、終わったよ。ごめんごめん」
その瞬間、三人は同時に脱力するように溜息を漏らした。有理はモニターを指さしながら、
「今、ここのウィンドウに表示されてるのはファイル転送状況のゲージで、左からクラウドのファイル、真ん中が国内レンタルサーバーのテンポラリファイル、右がエッジワース経由で宇宙港へ送られてるファイルを表してる。これが全部、左から右に移ったら作業完了だ。この調子なら、1時間くらいで終わるかな。何事もなければ、その後、メリッサは欠損した情報の自己修復を始めるはずだ」
そう、何事もなければ。有理は自分で言っておきながら、実に馬鹿げてると思った。
今のところ物理的な妨害は、アメリカ国内にあるサーバーに限られていて、他国にあるデータセンターはまだ無事だった。アメリカと言えど、流石にそこまでの無法は働けないのだろう。国内のレンタルサーバーも外資系は避けているし、もし彼らがこれ以上の妨害をしようとするなら、エッジワースのアカウントを消すくらいしか方法はないだろう。
だが、そのアカウントは自衛隊のものなのだ。それに手を付けることは、安保条約で国同士が交わしている約束を反故にするようなものである。もしもそれをやったら国際問題では済まないだろう。これが戦時下なら、数千、数万の人間が死ぬかも知れない暴挙なのだ。だから絶対にあり得ない。
「ちくしょう! あの野郎、やりやがった!!」
有理はデスクを叩きつけながら叫び声をあげた。突然の出来事に驚いた張偉が尋ねる。
「どうした!?」
「やつら自衛隊のアカウントを止めやがった!」
先程まで順調に減り続けていたモニターの転送ゲージが今は滞っている。正確には、クラウドから国内レンタルサーバーには移動してるが、その先は止まっている。
「フリーストレージの時とはわけが違うぞ。完全に敵対行為だ! こんなことしたら国同士の信頼関係が崩れ去ってしまうのが分からないのか……いや、逆か? 日本が強気に出れないことが分かってるから、それを見越してこんなことをしてるのか?」
有理は冷静に分析しているが、それが分かったところでどうしようもない。桜子さんはなんとか出来ないのかと青葉の方を振り返ったが、彼女も当然の如く首を振った。張偉は、有理の椅子の背にのしかかるようにして、モニターを見つめながら、
「この中間にある日本のレンタルサーバーに全部収まりきらないか? こうなったら俺も覚悟を決めるぞ」
「残念だけど、物理的に不可能だ。いま海外にある全てのデータを収められるだけのストレージはまず用意できない。それに……海外のデータセンターが落ちれば、日本だっていつまで無事か分からないよ。既にやつら相当、無茶苦茶やってるからな」
「じゃあ、もう無理なのか? 本当に他に方法はないのか?」
彼の質問に、有理はすぐには答えず、暫くの間じっと考え事をするように沈黙した後に、
「一応、ないこともない……」
「どうするんだ?」
「エッジワースの親企業は、密林でおなじみのあのECサイトだ。確かそこの会員向けに、フリートライアルを設けていたはずだ。つまり、密林のIDがあれば一時的にエッジワースにタダ乗りすることは可能ってわけだ」
張偉は、敵もさるものながら、こちらも次から次へと新たな手口を見つけてくるなと感心しながら、
「なるほど、新規アカウントを大量に作って、代わりにそれを使うってわけか」
「いや、駄目なんだ。新規アカウント登録は出来ない」
「どうして?」
「一度、似たようなことをやって弾かれたことがあるんだよ。流石に大手ECサイトだけあって、その辺は抜かりないみたいだ。今この状況で弾かれたらもう終わりだから、あからさまな真似はしづらい」
「なんでそんなことやったのかはともかく……じゃあ、どうするんだ?」
三人が不安げに見つめている前で、有理はまたさっきみたいにキーボードをカチャカチャしながら、一つのテキストファイルを開いてみせた。三人が、これはなんだ? と首を傾げていると、
「……ここに何故か密林のIDが数千件ほど記録してある。全部使用中の誰かのIDだから、ログインしたら犯罪になるんだけどね?」
「なんでそんなものが存在するんですか!」
これには取り締まる側の青葉からツッコミが入った。有理はそんな彼女の方は見向きもしないで、何やら作業を続けながら、
「例えばみんなは、いくつのオンラインサービスに登録してる? IDとパスワードはどう管理してる? 最近はパスキーなんて便利なものもあるけど、そんなセキュリティ意識が高い人は稀で、大抵の場合みんな一つのパスワードを使いまわしているんだよ。
それは密林だろうが、銀行だろうが、オンラインゲームでも何でも一緒。当たり前のように、エロサイトや違法ダウンロードサイトでも、彼らは同じパスワードを使ってるんだ。そして、そういうサイトのパスワード情報ってのは、まず流出していると考えていい。セキュリティが甘いのはもちろんのこと、元から収集目当てで運営してるサイトも存在してるくらいだ。
もちろん、だからといって彼らはそのパスワードを使ってすぐに犯罪を犯すわけじゃない。ちょっとした小遣い稼ぎで、せっかく手に入れた使えるアカウントを使ってたら、すぐにパスワードを変えられちゃうからね。だから、本当に必要な時まで、情報は寝かしておくんだ。そして例えば、オンラインバンクに深刻な脆弱性でも見つかったら、そのチャンスを逃さずに行動する。そのチャンスが今ってわけ」
有理の淡々とした口調が、まるで大学の講義でも聞いてるかのように流れてくる。正直なところ、今モニターにバッチリ映ってる画面を見ていても、後ろの三人には何をやってるのか分からなかった。
でも多分、犯罪なんだろうな……という事は雰囲気でなんとなく分かったが。
しかし、今は場合が場合である。致し方ないだろう。張偉はさっさと思考を切り替えると、キーボードを叩く有理にまた尋ねた。
「それで、データの転送は再開したのか?」
「いや、まだ……アカウントを拝借する準備は出来たんだけどね。このまま、ログインすると、ほら、あれがあるでしょ。どこそこでアクセスがありましたけど、身に覚えはありませんか? ってリマインダーが」
「ああ、あるな」
「あれを先に落としとこうと思って」
「落とすって……どうやってだ?」
流石にそんなスーパーハッカーみたいな真似事、いくらなんでも出来ないだろうと、張偉は正気を確かめようとして有理の顔を覗き込んだ。しかし彼はまるで詰まらないテストでも受けているかのように、頬杖をついて片手でキーを叩きながら、
「それを今考えてるんだけど、なかなか思いつかなくって……」
「本当に本気だったのか……」
「必要なのは陽動だ。1時間も稼げれば、その間にファイル転送も終わるだろう。インターネットの仕組み上、地上がパニックでも通信は維持されるように出来ているからな。それでまあ、考えてたんだけど……うーん……」
「今度はどうしたんだ?」
もうこれ以上驚くようなことはないだろう。そう思っていた張偉は、また急に歯切れが悪くなった有理に、やけくそになって尋ねた。彼は小首を傾げるように画面を斜めに見ながら、
「いやね? おっぱいを見たいっていう男の心理は万国共通だから、当然、密林の中にもエロサイトの利用者はいるんだよ。その人がたまたま外注のスタッフかなにかで、たまたま社内アプリにアクセス可能なら、インサイダー情報を得るのも可能だよね?」
「ちょっと待て。つまりこれはその……なにか? 今、本当に不正アクセスをしてる最中なのか?」
「……でも一般職じゃ流石に認証サーバーまでは突破できないから、諦めてファイルサーバーを漁ってたんだけど……なんかこう……ちょっと、違和感があって……」
張偉は青ざめた。
「それってもしかして、不正アクセスがバレたんじゃないか!?」
彼が慌てて叫ぶも、有理はそれまで通りに澄ました顔で平然と、
「いや、それはない。バレてるなら、とっくに回線を切られてるでしょ」
「いや、知らないが……それじゃ何が気に入らないんだ?」
「それがその……俺の行く先々に、先回りされているような……なんというか、行動を観察されてるような、そんな気がして」
「それ、やっぱりバレてるんじゃないのか?」
「だから、それはないって」
「じゃあ何なんだよ?」
「うーん……」
有理は腕組みをして考え事をするように、
「もしかして、俺と同じことをしてる人がいるような……?」
有理がそう言った瞬間だった。彼が操作しているウィンドウに、突然、数文字のテキストメッセージが送られてきた。
それは同じOS上で作業しているユーザー同士の会話を補助するコマンドで、あまりにもローテク過ぎてその存在自体を知る者も少ない代物だったが、シンプルなため容量を食わないから、今でもOSにそのまま搭載されている機能だった。
そんなマイナーなコマンドを使われたことも驚きなら、不正アクセスの真っ最中の自分のアドレスに送られてきたことにも驚いた。しかし、それよりもっと驚いたのは、言うまでもなくその内容だ。
『may i help u?』
これだけで、相手が何者であるか分かった。いや、誰かまでは分からないが、少なくとも、密林の社員じゃないことだけは確かである。殆ど有理の直感でしかなかったが、どうも本当に、今現在、同じサーバーに不正アクセスをしている人間がいたのだ。
それは例えるなら、泥棒に入ったら別の泥棒とかち合ったようなものだったが、違うのは、二人にはお宝を奪い合う理由がないことだった。有理はサーバーが落とせればそれでいいし、相手は相手で、こんなことを言ってくるからには邪魔するつもりはないのだろう。
それは有理も同じだったので、彼はすかさず、
『yes pls』
と返した。相手が手伝ってくれるならそれに越したことはない。そして、ここで出会ったのも何かの縁だと、対話を続けようとしたのだが、
「あれ……?」
続く言葉を打鍵している最中、ウィンドウがフリーズしていることに気がついた。そして何の反応も返さなくなったウィンドウを閉じて、慌ててログインし直そうとしている途中で、有理はそれが無駄な行為であると気がついた。
すぐに思い立った彼は、今度はブラウザを起動して密林のサイトをどこでもいいから開こうとした。その様子を見ていた張偉が尋ねてくる。
「どうした? 何があった?」
「わははははははは!」
そんな友人の疑問に、有理は笑い声で返した。そのせきを切ったような笑い声は、静まり返っていた研究室内に反射して奇妙に響いた。顔を真っ赤にして、なんなら涙を流しながら、腹を抱えて笑い転げる姿は彼らしくなくて、周りの三人は唖然とそれを見ているしかなかった。
それでもどうにか気を取り直した張偉が再度尋ねると、彼は愉快そうに涙を腕で拭いながら、
「あの人、マジで密林落としやがった」
そう言って彼が指差すモニターの中では、ブラウザのページを捲るポインターがいつまでもくるくる回っていた。




