ボールは友達ィ
「ぐごごーーー……ぐごごーーー……ふが……ふぐっ!?」
自分のイビキがうるさくて目が覚めた。なんか妙に態勢が悪いと思って寝返りを打とうとしたら、椅子から転げ落ちそうになった。慌ててバランスを取ったらガシャガシャとけたたましい音が鳴り響いて、リクライニングチェアは倒れずに済んだが、完全に目は覚めてしまった。
あくびをしながら伸びをすると、狭い椅子で寝ていたせいか、腰の辺りがジンジンと痛んだ。擦りながら倒していたシートを戻すと、眼の前のディスプレイが勝手に点いた。それで思い出したが、昨夜は例のサーバールームに泊まったんだった。里咲は涙を擦った手でマウスを掴むと、ブラウザで自分の死亡記事を開いた。
昨日、男の体で目覚めた時は、場所が場所だけに異世界転生を疑ったものだが、その後判明した事実によれば、どうやらここは異世界ではなく元の世界で、自分はまったく見知らぬ男の体に転生していたらしかった。記事によれば自分が死んでからは数日が経過しており、元の体に帰れる保証はなく、残りの人生、この男として生きていくしか無いらしかった。
タダでさえ別人として生きていくなんて難しいことだろうに、TS転生までして、果たして無事に余生を送れるものだろうか。これからのことを考えると不安しかなかったが……
その時、里咲のお腹がグーッと鳴り出して、
「まあ、お腹が空いてちゃ、生きるも死ぬもないよね」
里咲は独りごちると、それ以上深く考えずに朝ご飯を食べに寮へ戻ることにした。
食堂の料理は昨晩も最高だったが、今朝も最高だった。3種類のプレートから1つを選ぶのだが、どれもとても選びきれないくらい豪勢で、味もその辺の高級レストランが裸足で逃げ出す美味さである。
舌鼓を打っていると張偉がやってきて隣の席に座り、
「物部さん、もう来てたのか。部屋に呼びに行ったら桜子さんしかいなくて、昨日はどっか行ったまま帰ってこなかったと言うから心配したぞ。何かあったのか?」
里咲は、あの女は桜子さんと言う名前なんだと思いつつ、
「ううん、別に何も無いよ。ただ単に用を思い出して、サーバールームに泊まっただけ」
「そうか。今日も研究室に直行か?」
「う、うん、学校終わったら、今日もまたあっちに泊まろうかなあ……」
里咲は自分も学校へ行くつもりでそう答えた……っていうか、いま気付いたが、張偉はあの女のことを知っているようだが、本当にあの女は何なんだ? そんなことを考えていると、彼はまるで幼子を見守るおじいちゃんみたいに感心した素振りで、
「今日は授業に出るつもりか? やる気なんだな。それじゃ久々に一緒に登校するか」
「うん」
朝は起こしに来てくれて、朝食もこうして一緒なのに、どうして登校は一緒じゃないんだろう。一緒に登校して噂されると恥ずかしいからかな? と里咲は不思議に思ったが、取り敢えず適当に返事をしておいた。
その理由はすぐに分かった。張偉と登校してクラスまで案内してもらい、自分の席はどこなんだろうかとキョロキョロしていると関がやってきて、
「あれ!? パイセンが朝からいるなんて珍しいこともあったもんだな」
「なんで? 学生なんだから学業が本分でしょ」
「かー! これだから授業免除者は余裕だねえ」
関はそんな芝居がかったセリフを吐いている。というか、授業免除者とはどういうことだろうか。この男、寮では女を囲ってて、学校に自分専用のサーバールームを持っていて、その上授業には出ずに引きこもっていたというのか。昨日AIからいろいろ聞いたつもりだが、情報量が多すぎて、まだ頭の中でその人物像が見えていなかった。
果たして、こんな変な男のフリをして生きていくなんてことが出来るんだろうか……? まあ、思い返せば自分の人生も、ろくに学校なんて通ってなかったからなんとかなるか。
「授業を始めるぞー、みんな座れー」
そんなことを考えてると先生がやってきた。周囲を取り囲んでいた男たちがガヤガヤと面倒くさそうに席に戻っていく。里咲が空いてる席はどこか探していると、最後までぐずぐずしていた彼女のことを見咎めた教師が、
「ほらそこ、さっさと席につきなさい……って、あれ? 物部くんじゃないですか。今日は珍しいですね。それじゃ、せっかくだし、前回のおさらいを君にお願いしましょうか」
まごついていたら当てられてしまったらしい。教師は黒板にカツカツと問題を書き始め、
「以下の物質を、混合物と純物質とに分けなさい。1,鉄 2,塩酸 3,アンモニア 4,食塩水」
「はい、先生! 混合物と純物質ってなんですか?」
里咲が元気よく手を上げて質問すると教師は、え? っと目を丸くして絶句していた。里咲が、なんでそんな顔をするんだろう? と首を傾げていると、彼は狼狽えるように黒板へ向き直り、
「もうちょっと前からおさらいしましょうか。えーと、水溶液の中でナトリウムのようにプラスの電荷を帯びる性質を持つ物質と、塩素のようにマイナスの電荷を帯びる性質の物質のことをなんと呼ぶでしょうか?」
教師はいきなり黒板になぐり書きで別の問題を出した。さっきの問題はいいのだろうか? っていうか、どうして質問に答えてくれないんだろうと戸惑っていると、彼は時折こっちを振り返りながら、イライラした調子で、ヒント『陽』『陰』と書き加えた。里咲はそれを見るなり、
「陽キャ! 陰キャ!」
途端に教室中から笑いが溢れた。教師はため息混じりにもういいからと言って里咲を座らせた。どうしてみんな、そんな意地悪いリアクションをするのだろうか? 彼女には分からなかった。
その後、他の授業でも里咲はことごとく教師から当てられた。不思議だったが、とにかくボロを出してはまずいと、丁寧に返事をしたつもりなのだが、何故かどの教師も困惑の色を浮かべて、すぐに彼女のことを黙らせるのだった。
ついには本気で怒りだす教師まで出てきて、それでようやく教師たちは里咲がふざけてると思い込んでるようだと分かったのだが、いかんせん自分の学力では、彼らの質問にまともに答えることなんて出来ないので困ってしまった。
こんなことなら授業をサボっておけばよかったと後悔したところで、午前の授業が終わり昼休みになった。昼は学生寮で食事は出ないらしく、がっかりしながら購買でパンを買って、便所で目立たないように食べてから教室に戻れば、午後の最初の授業は体育だったらしく教室はがらんとしていた。どうして誰も教えてくれないんだ?
慌てて体操服に着替えてグラウンドに出ていくと、既に体育教師が来ていてクラスメートたちは整列していた。里咲がその列の一番うしろにこっそり加わると、たまたま近くにいた張偉が気づいて、
「あれ? 物部さん。今日は見学じゃないのか?」
見学? 生理でもあるまいし、なんでだろう……? ああ、もしかして、午前中にドジってしまったから、風邪を引いてると思われてるのかも知れない……里咲はそう考え、
「うん。昼間はだらしないとこ見せちゃったね。でももう大丈夫。午後からはいつもの物部有理だと思ってくれたまえよ」
「はあ?」
里咲が胸を張ってそう言っても、張偉はまだ不安そうな顔をしていた。よっぽど信用がないらしい。彼女は親友にこれ以上心配をかけさせまいと、両頬を叩いて気合を入れた。
体育の鈴木先生の訓示を聞いてから準備運動が終わると、チーム分けを命じられたクラスメートたちは、自然と二手に分かれていった。既にある程度グループが決まってるらしく、里咲はどっちに入ればいいか分からず、取り敢えず近くにいた生徒に入れてと頼んだら、あっち行けと追い返され、2つのチームで彼女の押し付け合いが始まった。どうやら足手まといに思われているらしい。
憤慨していると最終的に張偉が引き取ってくれて、チームメートたちの嫌そうな目に迎えられながらチームに加わることになった。何故かみんな中国語を話すので何を言っているのかわからなかったが、多分、嫌味を言われているのだろうなあ……そこまで信用ないのかと、少し傷つきもしたが、まあ見てろってと内心では思っていた。
今日の授業ではサッカーをやるらしいが、実は里咲はあらゆるスポーツに長じているのだ。その昔、少年漫画のスポ根ものは汗臭そうでいいよねと本当は女子たちと熱く語り合いたかったのに、男子とばかり遊んでいせいで逆に孤立してしまったことがあった。この世に差別があるということを初めて知った、苦い記憶だ。
しかしその時の経験から、こうして男子に混じっても十分にやれる自信が彼女にはあった。何しろ、彼女は第2世代で、身体強化魔法が使えるので、性差などものともしないのだ。
「へい! パスパス!」
そんなわけでキックオフと同時に飛び出していってボールを要求したのだが、案の定と言うべきか、誰もパスしてくれなかった。それでもチャンスを作ろうと、何度も裏とりの動きを見せたのだが誰も反応してくれず、仕方ないので低い位置までボールを取りに下がって行ったら、ようやく張偉からパスを貰えた。
すぐにあちこちから『パス!』という悲鳴みたいな声が上がったが、彼女はそんな声は無視してボールを足の間に入れると、ゴールまでのルートをじっくりと観察した。
「パイセン、いただき!」
すると彼女にボールが渡るのを待っていたかのようなタイミングで関がチャージを掛けてきたが、里咲はそんな関を片手で軽く押しのけると、彼を引き倒した勢いをも利用して加速し、続けてスライディングを仕掛けてきた敵MFをジャンプで躱してドリブルを始めた。
慌ててディフェンダーが二人がかりで阻もうとしてきたが、既にトップスピードに乗ってしまった彼女を止めるすべはなく、里咲はキックフェイント一つで悠々抜き去ると、最後まで残っていたアンカーマンを華麗なルーレットターンで置き去りにして、ついにキーパーとの一対一に持ち込み、シュート態勢に入った。
「ボールは友達ィィーーっ!!」
そしてその友達がひしゃげそうなくらい強烈なシュートを放てば、友達は無回転で不規則変化し、反応が出来なかったキーパーは体のどこかに当たってくれと両手両足を伸ばしたが、無情にもボールは彼の脇の下をくぐり抜けてゴールネットに突き刺さった。
「ゴール! ゴール! ゴーゴーゴーゴーーーーッッ!!」
里咲はゴールが決まるとそのままコーナーまで走っていって、誰もいないグラウンドに向かって腰をクネクネしながら28回くらい叫んだ。一人セレブレーションをしていると、唖然としていたチームメートもやがて我に返り、駆け寄ってきて揉みくちゃにされた。うひょー! 汗臭いぜ!
「你好最高」「球蹴上手」「天才万歳!」「珍古万個!」
中国語だから何を言ってるかさっぱりわからなかったが、どうやら喜んでくれているらしい。未だショックでうなだれている日本人チームを横目に見ながら、和気あいあいとセンターサークルまで戻っていったら、審判をしていた鈴木先生まで我がことのように喜んでいて、
「うおおおーー! 物部ーー! 先生は、感動した! おまえもついに魔法が使えるようになったんだな!?」
「え? やだなあ、そんなの当たり前じゃないですか」
よくわからないが、欧米人みたいに熱烈なハグをしてくる鈴木を若干暑苦しく思いながら返事をしていると……
その時……里咲は不意に、背筋が凍るような強い悪寒を覚えた。どうしてだろう? 自分の動物としての直感が、異様なほどプレッシャーを感じているのだ。
心臓をバクバクさせながら周囲を見渡せば、グラウンドは自分たちの他にも、別のクラスの女子も使っていたのだが、その集団の中でひときわ目立つ女の子が、こっちのほうをじっと睨みつけていた。
ポニーテールに結った黒い髪が光を通すと、炎が燃え上がるかのように真っ赤に輝く、そんな不思議な頭髪をした少女が、何故か里咲のことをじっと見ているのだ。まるで殺すとでも言っているかのような、その鋭い眼光に射竦められた里咲が固まっていると、彼女は里咲が気づいたということに気づいたとでも言いたげに、もう一度じろりと憎悪に満ちた視線を飛ばしてから、ふんとそっぽを向いてしまった。
舌打ちまで聞こえてきそうなその態度に怯えながら、里咲は一体自分は……いや、この男は彼女に何をしてしまったんだろう? と恐れおののくしかなかった。




