高尾メリッサの生存ルート
『中野坂上、中野坂上……』
5度目の地下鉄での目覚めは最悪を通り越して吐き気をもよおしそうだった。目覚めてもなお、喉を掻っ切られた感触が残っており、ずっとゴホゴホ咳き込んでいたせいか、今回は隣のおっさんが体を預けてくることも無かった。
家に帰るのであればそのまま乗っていれば良かったのだが、有理は電車のドアが開くと同時にホームへ降りた。乗り換え客を押しのけて這うようにベンチまで歩いていき、体を投げ出すようにして席に座ると、そこで吐き気が収まるのを待った。涙目で視界が薄ぼんやりと揺れていた。
待つこと数分、どうにかこうにか吐き気が収まってきた彼は、深呼吸してため息を吐いた。全身にびっしょり汗をかいていたようで、トンネルを吹き抜ける風が冷たく感じるくらいだった。
後続の電車がやって来てまた出ていったところで、ようやく落ち着いてきた有理は、体感時間ではついさっき、実際にはこれから半日後に起きた出来事を思い出し、そして首を捻った。
さっきのあれは、何だったのだ?
まさか、レイシストの理不尽な凶行から逃れ、暴走車両に遭遇することも回避して、今度こそ何も起きないように、起こさないようにと、安全第一に家まで帰ってきたら、留守中に侵入していた謎のミリオタに喉を掻っ切られて殺されるなんて、そんなの想像つくわけないではないか。
というか、あの連中は泥棒などではなく、高尾メリッサを殺すために予め侵入していたプロの殺し屋のようにしか思えなかった。というのも、意識が途切れる最後の瞬間、彼らは計器っぽい物で何かを測っていたからだ。
ただの直感でしかないのだが、あれは魔法力とか、何かそんなのを測っていたのではないか? 彼らは、高尾メリッサに魔法的な何かがあると考えて犯行に及んだのだ……そしてそれは、ある意味正しい判断だと言わざるを得ないだろう。
何故なら……今現在、この体の中に入っているのは鴻ノ目里咲ではなく、物部有理なのだから。有理自身、何が起きているのかは分からないが、何か魔法的な珍現象が起きていて、過去に戻ってきてしまっているのは間違いないのだ。もしも今の自分がM検みたいなテストを受けたら、多分、おかしな数値が出るのではないか。
となると、もしかしてあの殺し屋たちは、有理が中に入っていることを知っていたのではないか? 少なくとも、今の高尾メリッサに異常があることには気づいていたと考えられる。そして彼らは彼女を殺した……何故そうする必要があるのかは分からないが。
そう考えると、今までに起きてきた事件がまったく別の物に見えてくる。
最初の、隣の民家に隠れていた暴漢も、それをやり過ごしたら秋葉原で暴走車両に轢き殺されたのも、赤門前で別の男に刺殺されたのも、あの殺し屋たちと同じく、偶然ではなく、全て仕組まれた物だったのではないか。
つまり今までに起きた全ての死に、何者かの意志が介在しているのだ。
それが何者かまでは分からないが……このまま漫然と明日を迎えても、また別の手口で殺されるだけだろう。連中の裏をかいて生き残るすべはあるのだろうか?
「しかし、何故だ?」
有理はそこまで妄想をたくましくしたところで疑問を抱いた。仮にこの予想が正しかったとして、何故、犯人は有理を殺そうとしているのだろうか。有理自身は人類初のM検適合者で、ある意味有名ではあるが、それが殺される理由になるとは思えなかった。もしもそうなら、今までにとっくに殺されてなければおかしいだろう。
高尾メリッサに関してもそうだ。彼女は第2世代であって、一部のレイシストにはそれが彼女を殺したい理由になるかも知れないが、最後にあんなミリオタが出てきた時点でその可能性はなくなった。そもそも、あの連中は何者だったのだろうか……
正直、こうなってくるともう、一人で対処するのは限界に思えてきた。せめて誰か相談できる相手がほしい。こういう時、一番頼りになりそうなのは桜子さんなのだが、彼女は現在、ワシントンに出張中で連絡を取る手段もない。
次に思い浮かぶのは宿院青葉だが、こちらの連絡先も今は手に入れる方法がなかった。寮に帰れればスマホの中にあるのだが、そうしたくともあの学校の敷地に入れると思えない。何しろ、あそこは学校と言っても、自衛隊の施設なのだ。普段は見逃してもらってるが、もしあの壁を越えようとしたら、セキュリティが飛んでくるはずだ。
「いや、いっそ拘束されるのもありじゃないか?」
有理は、ふと、それは良い考えのような気がしてきた。確かに、あの学校に不用意に近づけば逮捕される可能性があるが、逆に言えば、逮捕されていれば今まで彼を殺してきた連中は近づけないはずだ。
日本は法治国家だから自衛隊がいきなり民間人を裁くようなこともない。逮捕して尋問されるだろうが、その時、事情を説明して宿院青葉か、鈴木先生あたりに出てきて貰えば、身の潔白は証明できるだろう。そうしてあの学校に保護してもらえば、もう高尾メリッサは殺されなくて済むんじゃないか?
「……保護?」
その時だった。有理は自分の発した『保護』という言葉に、何故か引っかかりを覚えた。何がそんなに気になるかといえば、仮に保護されたとして、学校はどこに彼女を匿うだろうか? あの学校は広いと言っても、人が寝泊まりできる場所は限られている。自衛隊の駐屯施設か、学生寮か……
「そうか……無人の第三学生寮なら、誰にも見られず匿うことが出来るじゃないか」
その瞬間、有理の脳内で記憶がフラッシュバックした。
数日前、有理が高尾メリッサの体に入れ替わってしまう前、彼は彼女を偲んで第三学生寮の屋上で一人やけ酒を飲んでいた、その帰り際、用をたそうとして最上階フロアを歩いていると、トイレから見知らぬ女生徒が出てきて……
「居たんだ……この女は、ホントもう……」
何しろ、有理は3次元には興味がなくて、おまけに彼女はだらしない格好をしてうんこの臭いを漂わせていたから、とてもそれが今をときめくアイドル声優だなんて思わなかったのだ。
有理はため息を吐いた。とはいえ、それは彼女に対する落胆ではなく、安堵のため息だった。
一時は彼女の死は、量子論的な確率の収縮によって、定められているのではないかと思いもした。あの殺し屋が出てきて、更に状況は絶望的に思えた。しかし、こうして彼女が生きていた証拠があるなら話は別だ。
高尾メリッサの生存ルートは存在する。
彼女が生きていた未来があるなら、この状況を打破する方法もあるはずだ。そしてそれはあの学校にヒントが有る。そうと決まれば、まずは手始めに、あの学校まで行って軽く逮捕されてみよう。
***
地下鉄の駅で方針を固めた有理は、もう部屋には帰らずに、そのまま反対側のホームへ回って電車を逆戻りした。時間的に結構ギリギリで、そうしないと終電に間に合いそうもなかったからだ。新宿駅で小田急線に乗り換え厚木駅で下り、タクシーを待つサラリーマンの列に加わる。白タクの運ちゃんのねちっこい勧誘を無視して、ようやく来たタクシーに自衛隊の基地までと告げると、不審な目をされたから、いつものコンビニまでと変更する。
指定したは良いものの、実はコンビニは寮からは近くても学校のゲートからは遠くて、結局、入口に行くまで5分ほど歩かされる羽目になった。その間、大丈夫とは思いつつも、もしやあの殺し屋たちが尾行しているのではないかと気になって、何度も振り返りながら、ようやくゲートに辿り着いた頃には汗だくになっていた。
閉じたゲートの前を横切って、通用口の前に立つと、インターホンのスピーカーから声が聞こえてきた。
「どうかされましたか? ここは一般の方の通行は禁じられておりますが」
特に何かボタンを押したわけじゃないのに聞こえてきたのは、どこかに監視カメラがあるからだろう。有理はそれをキョロキョロ探しながら、
「夜分遅くにすみません。私はこの中にある魔法学校に通っている者です。理由があって学外に出ていたのですが、今日中にどうしても学校に戻りたくて……とにかく、事情を説明しますから中に入れてくれませんか?」
「はあ?」
「実はここに来るまでに何度も命を狙われているんです。お願いですから中に入れてください。いっそ逮捕してくれても構いませんから」
有理がちょっと切羽詰まった風にそう言うと、スピーカーの声は戸惑うように沈黙していたが、暫くすると通用口の扉ががちゃんと開いて、中から二人の自衛官が出てきた。二人は不審そうに有理を招き入れると、彼の背後に誰も居ないか警戒するよう、じっくり見回してから扉を締めた。その間、腰のホルスターから手を離すことは一切なかった。
有理は学校の敷地内に入るとホッと安堵のため息を吐いて、
「助かりました。話を聞いてくれてありがとうございます。あ、まだ疑われてるでしょうが、私の身の保証は担任の鈴木先生がしてくれるでしょうから、まずは学校の方に問い合わせて貰えませんか? 彼は学生寮に住んでて、言えばすぐ来てくれると思います」
「……わかりました。では、問い合わせている間、こちらで待っててもらえますか。あちこち見られちゃまずいものもあるんで」
「あ、はい、すみません。本当に、すみません」
有理は平身低頭お礼を言うと、言われたとおりに詰め所の中へと入っていった。自衛官たちはそれを見送った後、少し首を傾げてから、すぐに方方と連絡を取り始めた。
詰め所はいわゆる交番みたいな作りになってて、ゲートを見守る守衛のカウンターの奥は休憩室に繋がっていた。小型の液晶テレビの中では最近流行りの漫才コンビが軽快なトークを披露していて、さっきまでそれを見ながら食べていたのか、煎餅の袋がちゃぶ台の上に散らばっていた。お茶の香りが漂っている台所シンクでは、電熱ポットから蒸気がシュンシュンと吹き出しており、どうやら彼らの休憩時間を邪魔してしまったようだった。
悪いことしちゃったかなと思いつつ椅子に腰掛ける。もう全身くたくたで、立っているのも限界だった。取り敢えず、こうして学校の敷地内にさえ入ってしまえば、もう命の心配はしないでもいいだろう。あの強盗たちが何者だったのかは分からないが、流石に自衛隊の施設にまでは入ってこれないはずである。
身の潔白はまだ証明されていないが、鈴木がやってくれば何とかしてくれるだろう。体育会系で独善的ではあるが、生徒には親身に対応してくれる先生ではあるから信用はしている。最悪の場合は、宿院青葉の名前を出せばなんとかなるはずだ。
そうして保護してもらった後、第3学生寮で匿ってもらえば、あの時の状況は完全に再現される。あとは呑んだくれた有理がトイレで彼女と鉢合わせすればミッションコンプリートであるが……
はて? あの時、この体の中に入っていたのは、自分だったのだろうか? それとも本物の里咲だったのだろうか?
そんな疑問が思い浮かぶのと同時に、有理はもう一つ違和感を覚えた。
そう言えば、あの日、自分は高尾メリッサの死を悼んで呑んだくれていたはずである。しかし、今ここで保護されたら、明日、高尾メリッサが死ぬことはなくなる。じゃあ、あの日、自分は何を理由に酒を飲んでいたというのだろうか?
何かがおかしい。このルートは間違っているのでは……?
そう考えた時、詰め所のドアがカタっと鳴って、誰かが休憩室の中に入ってきた。さっきの二人とは別人で、自衛隊の服を着ていたが、やたらソワソワしていてどこか落ち着きがないように見える。
どうしたんだろうと思いつつ、自分は不審者でないことをアピールしようと、席を立ちかけた時だった。その男は有理の姿を見るなり、申し訳無さそうな表情をして腰のホルスターに手をやり、拳銃を引き抜いたかと思ったら、なんの警告もなくいきなりパンと引き金を引いた。
有理はそれを見て、「はあ?」と思った。それだけだった。それ以上、何か考えるより前に、彼の意識はこの世から消えていた。
男の発射した弾丸は有理の眉間を打ち抜き、後頭部から脳髄を撒き散らして休憩室の壁に着弾した。男は有理が……高尾メリッサが死んだのを確認すると、来た時と同じように、またコソコソとその場を立ち去るのだった。




