次があってたまるか!
ガタンゴトン……ガタンゴトン……電車の揺れる振動が伝わってくる。トンネルを抜けるゴーっという風切り音が耳障りに響き、夢の世界から引き戻された有理は、クーラーでかじかんでしまった指先の感覚を微睡みの中でぼんやりと確かめていた。
と、その時、駅に近づいた地下鉄がブレーキを掛けて、横っ面から重力に見舞われた有理の体が座席の手すりにギュッと押し付けられていると、反対側からおっさんが体重を乗せてもたれ掛かってきた。
するとポマード臭い胡麻塩頭が目に飛び込んできて……不覚にも、その不快な臭いで彼は完全に覚醒した。
「う……うわああああーーーーっっ!!」
意識を取り戻した有理が反射的に座席から飛び上がると、寄りかかっていたおっさんはそのまま倒れて手すりに頭をぶつけていた。突然の絶叫に驚いた車内の人々が、彼を避けるようにして空間を作る。立ち上がった拍子に落としたバッグから荷物が飛び出る。有理はバクバク言う心臓の鼓動を耳に感じながら、慌てて自分の体をまさぐるように確かめた。
記憶が確かなら、たった今、自分はビルの影から突然でてきた男にナイフで滅多刺しにされたはずだった。血溜まりが道路を真っ赤に染めて、彼のことを助けようとしている藤沢と一里塚の泣きそうな表情が、段々暗く薄れていったはずなのだが……
体のどこかに傷はついてないか? あのおびただしい血はどこへ消えたんだ?
しかし、いくら探したところで体はどうともなっておらず、シャツの裾から覗いた肌は傷一つなく真っ白だった。
おかしい……確かに、刺されたはずなのだが……そう思って何度もお腹の辺りを確かめている時、彼はふいに周囲からの視線を感じた。
見れば、自分を取り囲むようにして、半円を描いた車内の人々が奇異なものでも見るような目つきでこっちを見ている。振り返れば、座席に座っていたおっさんが、「俺は何もやってねえよ」とキョドりながら周りに必死に言い訳していた。
『中野坂上、中野坂上、お降りの際はホームの隙間にご注意ください』
キンコンキンコンと機械音が鳴って地下鉄のドアが開いた瞬間、人々は一瞬にして興味を失ったかのように、彼から視線を逸らして電車から降りていった。まるで蛇行する急流のごとく、人々が散らばった荷物を避けていく。
有理はハッと我を取り戻すと、慌てて地面に散らばってしまった荷物をかき集めて、今まさに乗り込もうとしていた乗客を押しのけるようにして車外へ出た。そのまま反対側のホームに並ぶ人々の列に加わろうとしたが、思い直し、彼は空いていたベンチに腰掛けて、スマホを取り出し日付を確認した。
見れば、その日付が記憶から一日ほどズレている。つまり自分はまた、高尾メリッサが死ぬ前日に戻ってきたようだった。
「マジかあ……」
方南町行きの列車がホームに入ってきて、乗り換え客の交換が済んで電車が発進すると、すぐまた次の列車のアナウンスが聞こえてきた。反対側、池袋行きのホームは閑散としていて、都心に向かう人はもう少ない時間帯だということが分かる。ゴーっという電車の音が遠くから近づいてきて、生ぬるい風がホームに吹き付ける。
昨日は突然だったから殆ど意識してなかったが、この状況には覚えがあった。昨日、高尾メリッサとして覚醒した時も、確か自分はこの駅で降りたはずだった。アフレコの帰りに刺されたと思ったら、またこの場所に立っているということは、間違いない、どうやらここがスタート地点のようである。
それにしても間抜けな話だ。慣れない声優という仕事をやらねばならなくなって、その役目を必死にこなしている内に、当初の目的を忘れてしまっていたようだ。彼女になりきるのは良いが、その彼女と同じように殺されていては元も子もないだろう。元の体に戻れる保証なんて、実はどこにもないのだぞ。
こうして、やり直しが効いたから良かったものの、殺されてそのままお陀仏だったら笑い話では済まなかったはずだ……そんなことを考えていたら、ホームに次の列車が滑り込んできた。前回は実家に帰るつもりで支線に乗り換えてしまったが、本当だったら彼女の家に帰るには、そのまま荻窪方面に乗っていればよかったのだ。次があったらホームには降りずに、そのまま電車に乗っておこう……
次……? 次があってたまるか!
今度こそ気を引き締めて、死を回避しなければ。幸か不幸か、そのための予行演習はもう済ませた。次は上手くいくはずだ。取り敢えず、今は家に帰ってそのための対策を考えよう。でもその前に、コンビニに寄ってトイレ用漂白剤とブラシを買わなければ……
彼は気持ちを新たにすると、鼻息荒く、やって来たばかりの電車に乗り込んだ。
***
新高円寺駅で降りて駅前のコンビニに寄って目的の品をゲットして、ついでにちょっと小腹が空いていたからおにぎりを買って、パクつきながら家へと向かう。たまのコンビニ飯も悪くはないが、二日ほど食いっぱぐれていると寮の飯が恋しくなる。
例の違法建築へと帰還し、管理人の目をパスし、オートロックを解除してエレベーターに乗り込み、無機質な鉄のドアが並ぶ殺風景な廊下を通って、窓枠に大量のビニール傘が掛かっているドアの前に立った。ところでこのビニール傘、もしかしてどこかのうっかり者が、あちこちで買ってくるせいで溜まっちまったのではないか? だとしたら、お前に必要なのは日傘ではなく、折りたたみ傘の方ではないのか。
そんなどうでもいいことを考えつつ、いよいよドアノブに手をかけると、思った以上の緊張感が襲ってきた。推しの家に入るからではなく、またあの汚部屋との戦いが待っているのだと思うと、どうしようもなく気が重いのだ。
いっそ家には帰らずに、ネカフェにでも泊まってはどうかとも思ったのだが、この体でそんな真似をする気にはなれなかった。男だった時は考えもしなかったが、今は特に何もしなくても襲われる自信がある。憎い。この若く瑞々しい体が憎い。
そう自分に嘯きつつ、気合を入れてドアを開いた有理であったが……
「あ、あれ……?」
玄関を開けて目に飛び込んできた風景を見て、彼は素っ頓狂な声をあげた。何故ならそこには、あのゴミで溢れた汚部屋ではなく、新品みたいな空っぽの部屋が広がっていたからだ。
間違って、隣の部屋でも開けてしまったのではないか? と疑いもしたが、よく見れば玄関に見覚えのある靴が置いてあったのでここで間違いないようだった。キッチンシンクの戸には、昨日替えておいた新品のタオルも掛けられている。
まさかと思い、靴を脱いで部屋の奥へ入っていくと、あの足の踏み場がなかったワンルームが綺麗サッパリ片付いていた。慌てて窓を開いてベランダを覗けば、ゴミ袋に入れて放置した洋服の山と、今朝、忘れたまま出かけてしまった布団が干しっぱなしになっていた。そろそろ深夜という時間帯、少しひんやりしてしまった敷布を慌てて取り込む。
「こりゃ、どういうことだ?」
部屋はどう見ても、今朝、出てきたままになっている。とすると、過去に戻ってしまったと思っていたが、実はちゃんと時間は経過していて、今はアフレコが終わった後ということだろうか?
いや、しかし、それは絶対にあり得なかった。何しろ、有理はそのアフレコの後、ビルの前で刺されたのだ。その時の感触はちゃんと覚えているし、だったら刺された後、電車の中で目覚めるまでの間の記憶がないのは何故なのか。
もう一度、スマホで日付を確認したが、やはり一日戻っているように見える。さっきコンビニに寄った時にもらったレシートも確かめてみたが、こちらも同じであった。つまり、確かに時間は戻っているが、昨日やったことの結果は、そのまま残っているようだった。
そんなことがあり得るのか? と思いもしたが、そんなこと言ったら、そもそも高尾メリッサの体に入ってしまってることだってあり得ないのだ。不可解ではあったが、とにかく今は受け入れて、起きてる出来事を正確に把握しておこう。
そう思って、まずは明日アフレコはちゃんとあるのか確認しようと、マネージャーの藤沢に電話しようとして、着信履歴に彼女の番号が残っていることに気がついた。その日付をよくよく見れば、明日の午前10時35分と表示されている。間違いない。何度も確認したが、日付がバグっているのだ。
これでもう確定と思いはしたが、一応、藤沢に電話して、明日アフレコがあることもちゃんと確認しておいた。その際、台本をよく読んでおくように言われ、言われた通りバッグの中の台本を見てみたら、そこには昼間自分が書いた書き込みが最後のページまでびっしり残っていた。
やはりそうだ。やったことの結果は、ちゃんと残っているようだ。何が起きているのかは分からないが、ともあれ、あの汚部屋をまた片付けずに済んだのは僥倖である。こうして空いた時間を使って、明日の対策を練ることも出来る。
彼はそう思って、今日……というか明日、これから起きる出来事を、出来る限り細かく思い返すことにした。今日は慣れない声優なんて仕事をやったせいで一杯いっぱいだったが、次はもう少し上手くやれるだろう。一度刺されたおかげで、犯人の出方も分かっている。同じ轍を踏むことはもうない。
これらの情報を踏まえ、そして今度こそ、ビルの前で刺殺される未来を回避するのだ。




