声優はもう死んでいる
屋上には遠く相模湾からの潮風が吹き付け、夜の間に湿り気を帯びた空気が粘っこく肌にまとわりついて、なんとも気持ちが悪かった。
当たり年なのだろうか、学生寮周辺の雑木林には大量のセミが湧き出してきて、木々のざわめきとセミの鳴き声が混ざりあって、ゴオゴオと耳をつんざき、まるで墨汁をぶちまけたような黒が下界で蠢いて見えた。
それは昔は昼に鳴くものだったそうだが、いつの間にか夜に鳴くのが当たり前になっていて、今では窓を開けて寝るなんてことは考えられなくなっていた。この暴力的な騒音が、みんな恋の歌だというのだから、本当に恋は騒がしい。少なくとも自分はしたいとは思わない。
夏の夜は短くて、まだ電車も動き出す前だというのに、もう空は仄かに白んでいた。藍色の空に金星が燦然と輝き、遅れてやって来る太陽を待ちわびているようである。新聞配達が立てるガタンという音に犬の遠吠えが重なる。
物部有理はそんな景色を見下ろしながら、ぐいっと缶ビールを傾けて、底に残っていた生ぬるい液体を飲み下した。足元には大量の空き缶が転がっていて、時折、風に煽られては、カラカラと音を立てていた。
寝苦しい夜だから、夜風にでも当たろうかと部屋を抜け出してきた……というわけではない。眠れないから酒を飲むつもりで抜け出してきたはずだった。でも、いくら飲んでも眠気は訪れず、目はとろんとして微睡みの中にいるようだったが、腹の底はいつまでたっても冷えていた。もし、桜子さんがいれば気も紛れたろうに。あの迷惑な同居人はいつ帰ってくるのだろうか。
彼女が中国のテロリスト対策のために国際会議に出かける前は、国内は異世界人排斥デモで騒がしかった。国会前は言うの及ばず、主要な駅前も、幹線道路も、あちこち行列だらけで、職業ドライバーを苛立たせていた。シュプレヒコールが耳にうるさくて、誰も聞いていないのに、テレビは連日同じ光景を流し続けた。
そんなどうしようもない潮流が、昨日一斉に自粛モードに入った。切っ掛けは一人の声優の死であった。
そう、彼女は死んだのだ。
***
高尾メリッサは4年ほど前にデビューしたばかりの新人声優で、今時珍しく養成所には通わず、自力でオーディション合格してきた演技派の女優だった。一年目から何本もレギュラーを抱えていて、幅広い役を演じきり、またその美貌から今ではグラビアなどにも登場し、アイドル声優の道を突き進んでいた。去年始めた地上波のラジオは一周年を迎えて、本当なら今週公開録音の予定だった。
と、これだけの活動をしていたから、当然のように彼女の来歴はウィキペディアに詳しく載っていて、そこには彼女が異世界人のハーフ、いわゆる第2世代であるということもちゃんと書かれてあった。彼女は別段、そのことを隠すつもりはなかったのだろう。それが仇となった。
警察や報道機関を通して、少しずつ聞こえてきた犯人の供述は、まさに刹那的であった。彼女を襲った犯人は、第2世代かつ有名人であれば、誰でも良かったのだ。ムカつくから、なんとなく襲ってやろうと思い立った。ネットで情報を集めて、狙いやすい相手を探した。そんな中で、比較的スケジュールが割り出しやすくて、いつも電車で移動していて、小柄な女性である彼女はたまたま目的に合致していた。単にそれだけだった。
ムカつくから、相手は誰でも良かったと言い放った犯人は、しかし何故ムカつくかという問いには答えられなかった。多分、一生答えられないだろう。
幸福とは相対的なものだから、幸せを実感したいなら、より不幸な相手を見つけるしかない。だから自分が不幸だと感じている者は、いつも見下せる相手を必要としている。第2世代は、そんな彼らが安全に見下せるアイドルみたいな存在だった。故に彼らは意味もなく、第2世代を攻撃するのだ。
そんな自分の感情もコントロール出来ないような連中が、今、世界中にゴロゴロといた。それは日本も例外ではなかった。でも、本当にそれでいいのだろうか?
少なくとも、殺すほどのことではなかったんじゃないだろうか?
高尾メリッサの死は、そんな愚かな連中の頭を冷やす機会にはなった。思い返せば、日本は、世界で一番異世界人に友好的な民族のはずだった。50年前の大衝突で、世界が大戦争へと突入する中、唯一、馬鹿みたいに笑いあって、セルフィーを撮っていた間柄なのだ。
それがいつの間にこんなに憎み合うようになっていたのだろうか?
こんなことまで外国人のモノマネをする必要はないんじゃないのか?
と言うか、あの国会前のデモ行進はなんだったのか?
もしかして世論が誘導されていたんじゃないか?
そんな噂が、SNSで実しやかに囁かれ始めると、世間のそれまでの異世界人への不満は、嘘のように静かになった。どこを見渡してももう、異世界人を攻撃する者はいなくなっていた。チベットの事件が起きる前の、ほんの数ヶ月前の、当たり前が戻ってきたのだ。
でも、そうは言っても後の祭りだ。
有理は、長い長いため息を吐いた。
自分の推しはもう、死んでしまったのだ。
その日は学校から帰ると、いつものように食堂でご飯を食べて、大浴場で汗を流して、ラジオが始まる前にパソコンの前に座った。そしていつものようにオープニングが始まったと思いきや、いつもとは違う男性声優の声が聞こえてきて、事件のことを遠回しに伝えてきた。
その時点では何が起きているか分かっていなかったから、慌ててSNSでTLを辿って、ようやく事件のあらましを知った。たまたま現場にいた人がアップロードした映像もあって、それにはナイフを持った血まみれの気持ちの悪い男と、地面に倒れ伏す女性の姿が映し出されていた。どう見ても助かりっこないというのが、その時の感想だった。
それでも、きっと彼女は助かると思って、その後も一晩中SNSを追いかけ続けた。彼女が搬送された病院に駆けつけたというファンをフォローして、続報を待った。中には彼女は死んだとかいう釣りアカウントもあって、その度にイライラしたり通報したりしていたが、夜が更けて、朝になって、TVのニュース番組が彼女の訃報を伝えるに至っては、ついに受け入れざるを得なくなった。
そうか、死んだか……というのが感想だった。そう呟くのがせいぜいだった。それ以上、何が出来るというのだろうか。こっちが一方的に知っているだけなのに。
有理がその時のことを思い出してため息を吐いていると、スマホから、
『有理、元気をだしてください』
そんな声が聞こえてきて、ドキリとした。誰かと思えばAIのメリッサが話しかけてきたのだ。彼女にはネットをクロールして情報を仕入れる手伝いをしてもらっていたから、状況判断して、主人を元気づけようとしたのだろう。しかし、死んだ本人の声でそんなことを言われると心臓に悪い。余計、悲しくなるだけだ。
「そういえば、おまえ、いつからこの声で喋ってるんだっけ?」
有理が問いかけると、メリッサは沈黙し、少し間をおいてから、
『他の声に切り替えましょうか?』
と聞いてきた。
「いや、そのままでいいんだけどさ」
今となっては彼女のアイデンティティでもあるんだし、それを否定したくはない。
「ただ……」
ただ、その声が、思ったよりも好きだったんだなと、その時、改めて思ったのだ。自分はただの一ファンに過ぎないけれど、確かに彼女に助けられていたのだと。
「もし代われるものなら、代わってあげたいよ」
***
夏至が過ぎて7月に入り、朝が早くなった。気がつけばいつの間にか太陽が昇っており、それと同時に、持ってきた酒のストックが尽きた。昨日は一昨日よりも、一昨日は一昨昨日よりも多く持ってきたつもりなのに、今日も同じ時間に切れた。そして、あれだけ飲んだくせに、今日も頭は冴えていた。
散らばった空き缶を拾い集めながら、これからどうするかを考える。どうせ今から部屋に戻っても、仮眠すら取れないだろうから、シャワーを浴びたら朝食を食べて、研究室へ向かうとしよう。サーバーのメンテナンスでもしてたら、午後までには酒の臭いも消えるだろう。
と、その前に……一晩中飲んでいたから、そろそろ膀胱が限界に近かった。部屋に戻るまでもつかちょっと怪しかったが、幸い、この新設の第三学生寮はまだ無人だが、もう電気も水道も来ているはずだった。『非常口』の緑ランプが点灯しているから間違いない。
だったらトイレも使えるはずだ。確か、エレベーターホールの横に共同トイレがあるから、寄っていくとしよう。有理はそう思って、屋上から非常階段を降りると、最上階フロアに足を向けた。リノリウムの床をキュッと鳴らしながら、殺風景な廊下を進んでいく……
すると、その時……ゴボゴボゴボゴボ……っと、どこからか水洗便器の流れるような音が聞こえてきた。
風が騒がしいし、微かではあったが、多分聞き間違いじゃないだろう。しかし、この建物はまだ無人のはずである。あれだけ飲んだわけだから幻聴も疑ったが、続いてジャージャーと洗面台を使うような音まで聞こえてきて、どうやら現実で間違いなさそうだった。
音は有理が今まさに向かっているトイレの方から聞こえてくる。まさか、先客がいるのだろうか? 無人のビルの中で? 泥棒やホームレスが住み着いてるんじゃないだろうな……などと戸惑っていると、間もなくその目的地からひょっこりと人影が出てきた。
多分、向こうも誰か居るなんて思ってもいなかったのだろう。学校指定のジャージに身を包み、髪の毛はボサボサで、前髪が目にかかって鬱陶しそうな女の子が、あわあわと欠伸をし、ケツをボリボリ引っ掻きながら、完全に無防備な表情でテクテク歩いてくる。
実際、半分眠っているのだろう、彼女は真正面で呆然と立ち尽くしている有理にいつまで経っても気づかずに、ようやく3歩くらい前まで近づいたところで、いきなりピョンと大ジャンプして、
「おおおおうっ!?」
と奇声を発して後退りをした。まるで水族館のアシカショーのようだった。
そして彼女は、そのまま壁際までジリジリと後退していくと、背中を壁にくっつけて、野球のランナーがリードするみたいな格好で両手を広げながら、有理の横を通り過ぎようとした。
見開かれた瞳が恐怖の色を帯びている。
有理も彼女とは反対側の壁際に寄ると、同じように両手を広げて、ズリズリ背中を壁に擦り付けながら、カニ歩きで彼女とすれ違った。
セミのけたたましい声が無人の廊下に響き渡り、早朝の青っぽさが二人の影を浮かび上がらせる。まるでカバディでもしてるかのような間抜けな光景であったが、本人たちは至って真面目だった。
やがて彼女は有理の横を通り過ぎると、
「あばばばばば……」
と素っ頓狂な声を残して駆け出していった。彼女のその小柄な背中が見えなくなるまで見送ってから、
「なんだありゃ……」
と独りごちる。
って言うか、どうして無人の学生寮に、女生徒が紛れ込んでいたのだろうか? もしかして、自分と同じく、夜中にこっそり忍び込んで、ここをセカンドハウスにしてる口だろうか?
そういえば、彼女はトイレから出てきたんだった。寮の部屋にはシャワーはついているが、トイレは共同なので、誰かと鉢合わせするのが嫌で、こっちに用を足しに来ていたのかも知れない。噂では、女子寮はトイレというか、そこにある洗面台の奪い合いで殺伐としていると聞くから、うんこするのも大変らしい。それが嫌で逃げてきたのかも……
それにしても、さっきの女生徒、どこかで見たことがあるような……そんなことを考えながらトイレに入っていくと、たった今まで誰かが用を足していたという、生々しい臭いが鼻を突いた。
いや、香水を振り撒けとは言わないが、女子ならもう少し気を使ったらどうなんだろうか。まあ、向こうもまさか無人のビルに誰か居るとは思わなかったのだろうが。武士の情けである。有理は鼻を摘んで回れ右すると、もう一つ下の階まで歩いていくことにした。
女生徒のことは気にはなったが……まあ、同じ学校に通っているのだから、そういうこともだろう。それよりも尿意が限界である。彼はおちんちんをモミモミしながら、内股でピョコピョコ歩き出した。




