第六十五話
京都能楽堂の冷え切った空気の中に、血の生臭さの臭いが漂っていた。
吉川は、手に馴染んだ警察手帳の重みを感じながら、刑事としての「個」を取り戻そうと必死だった。つい数時間前まで、戦国時代の江戸城で刀を振るい、一人の少女を抱きしめていた記憶が、網膜の裏で熱く疼いている。
「被害者は、加納月、三十四歳。免許証の住所は京都市内です」
鑑識の声が響く。彼女の顔には「雪」と「花」の二つの小面が、表裏を合わせるようにして被せられていた。剥ぎ取られた素顔は、あの忍びの月そのものだった。
「課長、加納の手のひらにマジックで書き込みがあります。……『月』と一文字だけ」
捜査一課の課長が眉を寄せ、現場を鋭く見渡した。
「怨恨か、それとも何らかの儀式か。吉川、お前は加納の自宅捜索を頼む。
……明日は府警で、来賓席にいた算砂ら関係者の聴取だ」
「了解しました」
吉川が足早に能楽堂を後にしようとしたその時、背後から「刑事さん!」と呼び止める声がした。 振り返ると、そこには大きな瞳をさらに見開いた女流棋士、大橋想子が立っていた。
「……今日はもう対局中止。この後、関西将棋連盟に場所を移して、非公開で指し直すことになったわ。でも、その前に……ちょっといいかしら」
彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、一歩、吉川のパーソナルスペースに踏み込んできた。冬の制服の襟元から覗く、透き通るような白い肌。彼女が動くたびに、戦国時代の夜に嗅いだあの甘く瑞瑞しい残り香が、吉川の鼻孔を激しくかき乱す。
「何か分かったのか?」 「……変なのよ。スマホに見覚えのないアイコンが増えていて、ウイルスかと思って開いたら、これが出てきたの」
想子が差し出したスマホの画面。そこには、目を疑う光景が映し出されていた。 それは、江戸城で過ごしたあの最後の夜――。 月光が差し込む寝所で、さらし一枚になった想子が、汗ばんだ肌を吉川の体にこれでもかと密着させ、弾むような胸の膨らみを押し当てて、幸福そうにピースサインをしているツーショット写真。二人が魂を重ね、名実ともに『夫婦』となった直後の、あまりに秘めやかで肉感的な一枚だった。
「……これ、私よね。薄着で、こんなに嬉しそうにしてる。……それから、隣でなれなれしく私の腰を抱いている男……あなたにそっくりだわ」
想子の視線が、吉川の唇を、そして瞳を、何かを確かめるように探る。 「ねえ、刑事さん。私たち、どこかで会った? 昨夜、私は何をしてたの?」
(……合わさったあとの、あの記念写真か) 吉川の喉が、熱い生唾を飲み込んだ。
彼女には記憶がない。だが、その細胞は、あの情熱的なファーストキスの感触を、肌が溶け合うような陶酔を覚えているのではないだろうか。
「今日は今から捜査がある。……明日、京都府警で取り調べがあるからそこで、話をしよう」
想子の大きな瞳に宿った、不審と期待が入り混じった熱い視線が、背中に突き刺さる。
彼女のスマホに残された、あの「合体」の証拠。 それをどう説明すべきか。
吉川は、冷たい夜気を吸い込みながら、死んだ忍びの月、いや今回の被害者である加納月の自宅へと車を走らせた。




