第五十五話 かまきり
小那姫を招き入れる直前、宗古は家康の耳元に口を寄せ、密やかに、だが確信に満ちた声で何かを囁いた。 家康の表情が一変する。その眼光は獲物を捕らえる猛禽のごとき鋭さを帯び、彼は茶阿局、宗古、そして吉川を部屋の奥、御簾の陰へと隠れるよう手短に命じた。
静寂が支配する部屋に、小那姫がしずしずと入ってきた。
「家康様、御用でございますか」 「江戸での見聞は広がったか、小那よ」 「はい。淀君様にも至極懇意にしていただき、浜松では拝めぬ珍品にも触れました。江戸でこそ、私のやり残したことを成し遂げたいと存じます」 「ほう、やり残したことか。……では聞くが、昨夜の静勝軒の火災、そなたは何を知っておる」
家康の問いに、小那姫の肩が微かに跳ねた。 「家来の報告では、そなたは昨日、静勝軒に足を運んだそうだな。用向きは何だ」 「茶阿局様に、面白いものがあると唆されまして。太田道灌公ゆかりの道具を案内していただきました」 「それだけか? その後、そなたは一人で再び静勝軒を訪れているはずだ。忍びの月でもいたのか。……正直に申せ。私の目は欺けぬぞ」
家康が放つ威圧感に、小那姫の細い身体が激しく打ち震え始めた。 「……忍びの月より、吹き矢に添えた文が届いたのです。『夕刻、静勝軒の三階で待つ』と。私は奴を仕留めるべく、小刀を懐に忍ばせて向かいました。……ですが、奴は現れませんでした。二階の扉は開いておりましたが、もぬけの殻。……虚脱感に苛まれながら三階へ戻った時、道灌公の『からくり玩具』が目に留まったのです」
小那姫は、熱に浮かされたように語り始めた。
「箱の扉を開ければ、背後からぜんまい仕掛けで小刀が飛び出す玩具……。私はそこに、月の小面を仕込みました。箱の表に『月の小面』と筆を走らせ、忍びの月が欲をかいて箱を開けた瞬間、その背に刃が突き立つように仕掛けたのです。……奴を殺す、その一心で」
「その仕掛けのことを、誰かに話したか」
「……淀君様にだけは、誇らしげに語りましたわ」
「最近、淀君とは随分と仲が良いようだな。大野修理とはどうだ」
「修理様とは、入れ違いになるばかりで。
淀君様も『修理への用は済んだ。小那よ、お前は伏見に戻って私の側近になれ』と仰ってくださり、感激に震えました」
家康は冷徹な眼差しで、さらに小那姫を追い詰めた。
「以前、名護屋でそなたの性の嗜好を聞いたが……淀君と、何かあったか。隠し立ては無用だ」
小那姫の顔が屈辱と陶酔の混じった赤に染まり、彼女は力なくうつむいた。
「……はい。大変、良くしてくださいます。忍びの月など、比べものにならぬほどに……。私を慈しみ、蕩けさせてくださるのです」
小那姫の細い指が、自身の襟元を無意識にまさぐる。
その仕草には、淀君という絶対的な「支配者」に心身ともに屈服した女の、生々しい官能が張り付いていた。
「……淀君に仕掛けの話をした後、どうなった」
「修理様が戻られましたので、私は辞去いたしました。ですが、襖の向こうから淀君様の声が聞こえたのです……『忍びの月』『月の小面』。そして修理様の『仕留めます』という答え。……私はてっきり、修理様が私の代わりに月を殺してくれるのだと、そう思っておりました……!」
「――大野修理はな、小那。背後から小刀を突き立てられ、そのからくり玩具の前で事切れていたのだ」
小那姫の目が吊り上がり、悲鳴のような嗚咽が洩れた。
「まさか……私の仕掛けで!? 違う、私はやっていない! 修理様を殺す理由など、私には……!!」
彼女はそのまま畳に突っ伏し、獣のように泣き崩れた。
家康は冷ややかにそれを見下ろし、勝吉を呼んで彼女を連れ出させた。
静寂が戻った部屋。奥から姿を現した宗古が、家康に向き直った。
「実行犯は小那姫。……ですが家康様、黒幕は、やはりあの人です。大野修理は、もう用済みだったのでしょう」
「用済み、だと?」
「……おそらく、淀君は懐妊された。修理の存在は、もはや秘密を握るだけの邪魔者でしかなかったのです。小那姫の嫉妬と殺意を巧みに煽り、修理を死へと誘導した……。女の愛執を刃に変える、あまりに冷酷な差配です。」
宗古は家康の目を真っ直ぐに見つめ、その細い指先で彼の胸元に触れた。
「家康様、お気をつけください。忍びの月は、今や黒幕の直属の猟犬。次は、貴方の命を狙うかもしれません。この歪んだ歴史を正すためにも、貴方は死んではならないお方なのです」




