第五十二話
江戸城西の丸、家康の居室。行灯の火がパチパチとはぜ、焦げた匂いがまだ鼻を突く。 家康は眉間に深い皺を刻み、重々しく口を開いた。
「静勝軒はほとんど焼け落ちたが、基礎の柱付近だけは焼け残っていた。その三階付近にぶら下がるようにして発見された死体は……炭化が激しかったが、医師の見立てでは間違いなく男だ。そして、死因は火災ではない」
家康の鋭い眼光が、吉川と宗古を射抜く。 「背中から心臓付近を一突き。鋭利な小刀によるものだ。さらに、焼け残った持ち物や着物の断片から、それが大野修理殿であることが判明した」
「……誰が、そんな真似を」 宗古が呟く。
「忍びの月だろうな。だが、警戒を厳重にする必要がある。王子稲荷でも手裏剣が飛んできたのだろう?」
「はい。家康様の兵がいなければ、今頃どうなっていたか……」
「案ずるな、宗古殿。そなたらは大事な『未来の客人』だ。これからは勝吉と精鋭を常に側に付ける」
そこへ、勝吉が慌ただしく入室してきた。
「家康殿、淀君がお呼びです。……お一人で、とのこと」
「わかった。行ってくる。ここで待て」
家康が部屋を後にすると、宗古は残された勝吉に向き直った。その瞳は、まるで獲物を追う女豹のように鋭く光っている。
「勝吉さん。昨夜、修理殿が静勝軒に入ったのはいつ? 私は、戌の刻(午後八時頃)あたりが怪しいと思っているのだけれど」
「流石ですね、宗古殿。一階の入り口には見張りを一人置いていました。戌の刻になったばかりの頃、大野修理殿が現れ、『淀君の指示だ、三階へ行く』と言って中へ入ったそうです」
勝吉は手元の記録を追うように続けた。
「その後、囲碁打ちの算砂殿が『珍しい盤があると聞いた』と訪ねてきた。さらに、それより前の時間には小那姫殿が『淀君の依頼』で、茶阿局殿も普段の出入りの一環として、それぞれ別々に中へ入っていたようです」
「……出入りしたのは、修理、算砂、小那姫、そして茶阿局。それ以外は?」
「見張りは一人。忍びが裏手から登れば分かりませんが、あそこはただの古い資材置き場。月の小面の写し以外に、命を狙われるほどの宝などなかったはずなのですが……」
宗古はふふっと妖しく笑うと、隣に座る吉川の肩に、しなやかな体を預けてきた。男装の衣装越しでも伝わる彼女の胸の柔らかな弾力と、上気した体温。むせ返るような少女の香りが、緊迫した空気の中に甘く漂う。
しばらくして、家康が戻ってきた。その表情は、どこか呆れたような、複雑な色を帯びていた。
「……淀君から、驚くべき提案を受けた。大野修理の死は『無かったこと』にする、と」 「無かったことに……? これだけの事件をですか」 吉川が驚きを隠せずに問う。
「今、太閤殿下は国家の大事に集中しておられる。そんな時に修理の死で心配をさせたくない、というのが彼女の言い分だ。そして……春氏を伏見に連れ帰り、今日から彼を『大野修理』として育てるというのだ」
家康は苦笑を浮かべ、腰を下ろした。 「修理と春氏は異母兄弟。春氏の母は大蔵卿。淀君にとっては、御し難い修理よりも、気心の知れた春氏に名跡を継がせる方が都合が良いのだろう。私にとっても悪い話ではない。承諾したよ」
宗古は吉川の耳元に顔を寄せた。彼女の熱い吐息が首筋をくすぐり、湿った唇が掠める。
「犯人不詳、死体も消滅。……完璧な隠蔽ね。吉川さん、私は修理に脅されたこともあったし、大嫌いだった。実行犯は……あの人しかいないわ」
宗古は家康に向き直り、居住まいを正した。
「家康様、江戸で調べるべきことは終わりました。私たちは宗桂父様と吉川さんと共に、伏見に戻ります。歴史を正しい形にするために」
「……伏見へか。船を用意させよう」
「それから、お願いがあります。実行犯をこのままにするのは、私の気が済みません。……最後にもう一度、家康様に呼んでいただきたい人がいます。それと、月の小面についても……」
家康は宗古の瞳にある確信を見て取り、深くうなずいた。
「わかった。未来の人の言う通りにしてみよう。……あの予言の謎は、解けたのか?」
「まだ全てではありませんが、進むべき道は見えています」
宗古は吉川の手を強く握りしめた。その掌は、運命に立ち向かう者の熱に満ちていた。




