第二十五話 デジャブ
豪雨が浜松城を叩きつける中、事態は風雲急を告げる展開を見せた。城主・堀尾吉晴が血相を変えて広間に飛び込んでくる。
「家康殿! 淀君と大野修理殿が到着された! 事前の知らせもなしに急なご視察だ。淀君は、休む間もなく遠江分器稲荷神社へ向かうとおっしゃっている!
算砂氏もこちらに来られた」
「大変よ、吉川さん! 私たちも急がないと!」
宗古が叫ぶのと同時に、小那姫に呼びつけられた女中が、何かに取り憑かれたような足取りで城の外へと走り去っていった。
その虚ろな背中を見送りながら、俺たちは天守の広間へと急いだ。
そこには、金と紫、そして鮮やかな黄色に彩られた荘厳な衣装を纏い、淀君が鎮座していた。人ならざる美しさを放つ彼女の横には、冷徹な眼差しの大野修理。対面には家康と堀尾吉晴が座し、その後ろで俺たちや宗桂のおっさん、算砂が息を潜めている。
「堀尾殿、急な訪問をお許しされよ」
大野修理が、低く響く声で場を制した。
「淀君がどうしてもこの遠江分器稲荷神社で祈念したいことがあるとおっしゃられてな。太閤殿下も二つ返事で承知された。嵐の隙間を縫って追い風に乗ったゆえ、予定より早く着いたのだ」
淀君が、どこかトランス状態にあるような潤んだ瞳で口を開いた。
「私は見たのです。黄金に輝く狐と、愛しき我が子が夢枕に立ちました。その狐の導く場所で祈念せよ、さすれば太閤殿下の跡継ぎを授かるであろうと……。殿下と褥を共にし、熱い吐息が冷めやらぬ夜明けに見た、まことしやかな夢にございます」
その言葉は、まるで熱を持った絹のように俺たちの肌を撫でた。淀君の艶然とした色気が広間を満たし、大野が「黄金の狐とは分器稲荷に違いあるまい」と断じた。
神社へ向かう馬上の列で、俺は宗古を後ろに乗せ、あの女中のことを尋ねた。
「あの女中、来電に何をされたんだ?」
宗古が俺の背中にぴたりと身を寄せ、密やかに囁く。
「あの女中……来電の毒に当てられたのよ。
来電は影のように彼女の背後に忍び寄り、その大きな掌で華奢な腰を強引に引き寄せた。耳元で奏でられる湿り気を帯びた低い声は、女中の理性を容易く溶かし、首筋をなぞる指先は魂を直接掻き乱すように肌を粟立たせたの。
逃げようとする彼女をさらに深く抱きしめ、吐息が触れるほどの距離で、抗いがたい愉悦と恐怖を同時に植え付けた。首筋に残された熱い痕が、彼女の心を壊してしまったのよ。」
女中の愉悦が移ったかのような宗古の吐息が俺の首筋にかかり、ぞくりとした感覚が走る。
「来電は、算砂様と月が城に寄贈した『囲碁盤』を狙っていた。今は神社の宮司が預かっているあの盤よ。あれは中が空洞になっている……その中に隠された『何か』を、奴らは欲しがっているのよ」
遠江分器稲荷神社に到着した瞬間、空は黒一色に塗りつぶされ、地を揺らす雷鳴が轟いた。黄金の狐の前で淀君が祈念を終えた、その時だ。
カラカラ……。
奇妙な乾いた音が響き、霧の中から車輪の付いた椅子が姿を現した。そこに座っているのは、能面をつけた一人の女。椅子の下からは、ドロリとした赤い液体が点々と滴り落ちていた。
「淀君、お下がりください!」
小那姫が叫び、その面を剥ぎ取った。現れたのは、安兵衛が愛した貞(雪花)の無惨な死顔だった。胸には小刀が深く突き立てられている。
「貞! 嘘だろ、貞!」
安兵衛が号泣し、死体を抱きかかえる。その一方で、本殿の横に倒れていた別の女――忍びの月が放心したまま白い透き通る綺麗な胸元を開けたまま座り込んで横たわっていた。彼女の横には、ぱっくりと割られた空っぽの囲碁盤が転がっている。
忍びの月は、宗古の姿を見ると先ほどまでの放心した状態が嘘のような敏捷さで立ち上がり、林の中へと消えていった。
「囲碁盤に……小面は無かった……!」
吐き捨てられた言葉だけが、雨の中に残った。
小那姫は、泣き崩れる女中を見下ろし、どこか不気味な笑みを浮かべていた。
嵐の咆哮が神社の境内を震わせ、稲光が漆黒の空を幾重にも引き裂く。雨に濡れそぼち、激しく肩を上下させる宗古が、俺の手を自らの熱い掌で力強く握りしめた。
「刑事さん、見て! レベル4……ついに上がったのよ!」
掲げられたスマホの画面が、雨粒を弾き飛ばすほどの凄まじい輝きを放っている。
液晶には【4/10】のデジタル数字が血のような赤で刻まれ、その下で『村正の妖刀』という文字が、禍々しくも美しい鼓動を打つように明滅している。
その瞬間、目の前の空間が「バチィッ!」と電子音を立てて歪んだ。まるで現実の層がデジタルバグのように剥がれ落ち、虚空に深紅の亀裂が走る。その裂け目から、戦国時代の闇を凝縮したような一振りの打刀が、重力に逆らうようにゆっくりと姿を現した。
「嘘でしょ……これが、村正?」
宗古が震える指先で触れようとしたが、刀は無機質な沈黙を守ったままだ。
「刑事さん、あなたが握って!」
促されるまま、俺がその黒檀の柄を力任せに掴んだ。
カッ――!!
握った瞬間、俺の血管を熱い電流が駆け抜けた。冷徹なはずの鋼が、まるで生き物のように俺の体温を吸い上げ、爆発的なエネルギーへと変換する。刀身が内側から燃え上がるような深紅の光を放ち、周囲の豪雨を瞬時に蒸発させて白い霧を立ち昇らせた。
「刑事さん、今よ! スイッチを押して!」
宗古がスマホのアイコンを叩くと、俺の握る柄に、この世のものとは思えない光を放つ物理ボタンが出現した。
『村正・レーザー妖刀――起動』
俺がそのボタンを親指で押し込み、正面に立ちふさがる巨岩へと刀を構える。
「おおおおおっ!」
咆哮と共に放たれたのは、太刀筋などという言葉では説明できない「紅蓮の極光」だった。空間を真っ二つに焼き切るレーザービームが、激しい雨のカーテンを瞬時に蒸発させ、光の奔流となって巨岩を直撃する。
天地を揺るがす爆発音。
巨大な岩石が中心から真っ赤に融解し、数千、数万の礫となって粉々に砕け散った。
直後、爆心地から発生した凄まじい衝撃波が、熱風となって俺たちを襲った。
「きゃっ!」
不意の突風に、隣にいた宗古がよろめく。その拍子に、男装の小袖の裾が大きくめくり上げられた。
普段はさらしで胸を潰し、男として振る舞う彼女の露わになった滑らかな白い太腿と、その奥の柔らかな腰つきの曲線の奥の茂みが、爆発の残光に照らされて鮮明に浮かび上がった。一瞬だが、それは泥と血にまみれた戦場には似つかわしくないほど悩ましく、俺の視線を釘付けにした。
風が収まると、宗古はハッとして慌てて裾を押さえ、しゃがみこんだ。
俺の視線に気づいたのか、耳まで真っ赤に染まっている。普段の凛々しい顔が、今は恥じらいに歪み、潤んだ瞳で上目遣いに俺を睨みつけた。
震える声は、怒りというよりは耐えがたい羞恥に満ちていた。雨に濡れた髪が頬に張り付き、赤面するその姿は、まぎれもなく年頃の少女そのもので、俺の心臓が別の意味で大きく跳ねた。
「す、すまん……」
俺も慌てて視線をそらす。
気まずい沈黙のあと、宗古は熱を帯びたため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。まだ頬は赤いままだったが、その瞳には再び強い意志の光が宿っていた。
戦国時代の闇を、令和の禁忌的兵器が鮮血の色で焼き尽くした。
「すごい、これなら勝てる」
隣で宗古が、熱を帯びた吐息を俺の首筋に吹きかけながら、力強くうなずく。
俺たちは、火照る互いの体温を肌で感じながら、怨念の渦巻く林の奥へと消えた「月」の気配を、鋭い眼光で射抜いた。




