第十七話
肥前名護屋城の広間は、戦国の覇者が集うにふさわしい、息を呑むような熱気に包まれていた。
一同が秀吉の御出座を待つ中、大野修理に導かれて淀君が登場すると、広間の空気は一変した。
お色直しを終えたのであろう淀君は、金と銀、そして深みのある紫が入り混じった豪華な打掛を纏っている。
歩を進めるたびに、熟れきった果実のような芳醇なフェロモンを周囲に撒き散らし、その肉感的で成熟したプロポーションは、高貴さと妖艶さを同時に放っていた。
その圧倒的な存在感に毒されるように俺が目を奪われていると、隣に座る宗古から強烈な脇腹へのつねりが入った。
「何じろじろ見ているのよ。横にもっと、瑞々しいのがいるでしょ」
若草のような香りを漂わせる宗古が、嫉妬に瞳を燃やして囁く。
淀君の完熟した美しさに比べれば、宗古の身体はまだ蕾のように華奢だが、その肌からは爆発しそうなほどの若々しい熱気が立ち昇っていた。
宴もたけなわとなった頃、上座に座る秀吉が、隣に侍る淀君へどろりとした欲望の混じった視線を向けた。
秀吉は老いた枯れ木のような手で、淀君の打掛の合わせ目から覗く白磁のような膝を厭らしく撫で上げ、そのまま指先を太ももの奥深くへと這わせようとした。
「茶々よ、今宵の舞に免じて、少しはわしを愉しませてくれぬか……」
秀吉のむき出しの肉欲に、広間の空気が一瞬で卑猥な緊張に包まれる。
だが、淀君は眉一つ動かさず、その扇情的な唇に冷ややかな笑みを浮かべた。彼女は秀吉の手を、絹のような指先で優雅に、しかし峻烈に払い除けた。
「殿、ここは皆の目がござります。そのような戯れは、夜が更けてからにいたしましょう」
あまりに素気ない拒絶に、秀吉の顔が瞬時に土色に変わった。
天下人の矜持を傷つけられた彼は、持っていた盃を荒々しく畳に叩きつけ、広間には凍りつくような沈黙が走る。
秀吉は鼻息を荒くして不機嫌をまき散らし、場は一気に修羅場の様相を呈した。
「宗桂殿、盤を。わしは今、猛烈に駒を動かしたい気分じゃ!」
秀吉の苛立ちを察した宗桂のおっさんが、間髪容れずに盤を持ち出した。
始まったのは、変則ルールの『太閤将棋』だ。
おっさんは秀吉の稚拙な攻めを「流石は殿の慧眼!」と持ち上げ、絶妙なタイミングで王手をかけさせては、秀吉に勝利を譲り続けた。
数局も打つ頃には、秀吉の顔には再び好々爺然とした笑みが戻っていた。
「わはは! やはりわしの勝ちよな。宗桂殿、そなたもまだまだよ」
秀吉の機嫌が直ったのを見て、一同は安堵の息を漏らした。
広間では再び酒が流れ、宴は最高潮へと向かう。
金春太夫が『雪の小面』を、金剛太夫が『花の小面』を掛けた舞から始まった。
演目は『松風』。神戸の須磨を舞台に、月下の汐汲みを終えた若く美しい少女が舞う姿を表現したもので、その可憐さに広間全体が酔いしれる。
続いて、家康の家臣である勝吉が『月の小面』を掛けて『江口』を演じた。
普賢菩薩の生まれ変わりとされる江口の君という美少女が、白い象に跨って白雲に乗って天へと消えていく舞だ。
勝吉の舞は二人の太夫に劣らず、少女の神聖な美しさを見事に体現していた。
雪、花、そして月。いずれも当時の美少女を演じるための必須の能面であり、本物の『月の小面』を早く探さなければならないという焦燥感が、俺の胸に深く刻み込まれた。
最後に来電が踊ったのは、日本一高貴な姫君の跡継ぎを脅かす不逞の輩が、姫君自らに退治されるという斬新な筋書きの舞だった。
高貴な姫君は淀君、不逞の輩は家康、そして守られるべき跡継ぎは未だ見ぬ秀頼……。
来電が舞う扇の先が、挑発的に家康を指し示すたびに、宴の席には凍りつくような緊張が走った。
能楽が終わると、算砂と宗桂の対局が始まった。囲碁は算砂が貫禄を見せて僅差で勝ち、将棋は宗桂が『天守閣雁木』という、現代の俺すら見たことがない独創的な戦法で圧勝した。
宗桂の横に控える宗古に秀吉が目を留める。
「そちは、あの太閤将棋を案じた跡継ぎか。碁も嗜むと聞いたが、どうだ?」
「はい……多少は」
「ならば算砂殿、余興じゃ。この天才児と一手打ってみよ」
算砂は不機嫌そうに唇を歪めたが、太閤の命には逆らえず、宗古と盤を囲むことになった。
宗古の黒の小目に対し、算砂が一間高カカリに構える。
それに対し、宗古が放ったのは『黒の二間高バサミ』だった。
算砂の顔が瞬時に蒼白になる。俺は読唇術で彼の唇を追った。
(……何だ、この妖しい手は。見たこともない……)
それは囲碁初級者の俺ですら耳にしたことがある、『村正の妖刀』と呼ばれる難解極まる定石だった。
破壊力抜群だが、一歩間違えれば自らも致命傷を負う魔手。
局面は、計算機のように正確な宗古の手筋によって、次第に算砂を追い詰めていく。
「面白い盤面だが、打ち掛けとしよう。続きはわしが預かる!」
秀吉の鶴の一声で対局は中断されたが、算砂は救われたような顔で即座に盤面を崩した。
大野修理が宴の用意に席を立つと、場は一気に無礼講の喧騒へと流れ込んだ。
広間を見渡せば、算砂と娘の月の姿はどこにもなく、来電や大野修理も席を外していた。
家康は小那姫と密やかに言葉を交わしており、妖艶な淀君は鎮座したまま、獲物を探すような鋭い視線で広間を睥睨している。
宗古が俺に歩み寄り、耳元で熱い吐息と共に囁いた。
「刑事さん、あとで小那姫を尋問するわよ。家康様には、謎が解けたって伝えておいたから。
さっきの囲碁の時、スマホに『村正の妖刀』って文字が浮かび上がったの。だから、あの手を打てた。誰かが私たちに、この時代を勝ち抜くための武器を与えているんだわ」
「算砂と月、来電に大野修理まで居ないのが気になるな。
徳川を疎む連中が示し合わせたように席を外している……」
「ええ。淀君の関係者が、そんたくして私たちを狙っているのかもしれない。
あの稲荷神社で見つかった文書……あれは私たちへの手紙だけど、敵もその内容を知っているはずよ」
潮風のにおい、戦火の予感。俺たちは、美食と美酒の香りがみちる宴会場の喧騒を離れ、冷たい月明かりが射す回廊へと足を踏み出した。




