第十話
翌朝、白々と明ける東の空を背に、昨夜の情熱的な残り香が漂う寝室へ、例の女中が朝餉を運んできた。
おっさんこと宗桂は、二人の間に漂うどこか気まずくも熱い空気など露知らず、泥酔から覚めたひどい顔で飯を掻き込んでいる。吉川は白無垢の重みに耐えながら、仕事の顔に戻って女中に問いかけた。
「一応の確認だ。あの日、お前が意識を失い、部屋の外へ戻ったのはいつ頃だ?」
女中は頬を朱に染め、濡れたような瞳を伏せて答えた。
「……寅の刻を少し過ぎた頃にございます。来電様の指先が肌をなぞるたび、頭の芯が痺れるような甘い香りが広がり……媚薬を飲まされたかのように、ただ翻弄されるがまま。気が遠のくほどの悦楽の果て、あの刻を過ぎるまで、私は完全に理性を奪われておりました」
その生々しい告白を聞いていた宗古が、不機嫌そうに吉川の袖を引いた。
「女中さんの証言は貴重だけど、犯人が部屋を出たかどうかは、実はあまり関係ないわ。さっきこっそり厠に登って確認したけれど、天井裏の換気孔は他の部屋とも繋がっていた。腕に覚えのある者なら、誰にも見られずに移動できたということよ」
「ところで、小那姫が疑っていた歩き巫女とは何だ?」
「全国を遍歴する巫女よ。でもその実態は、呪術を操る祈祷師であり、旅芸人……そして、『忍びの者』として訓練され、闇に紛れて刃を振るう女たちのことよ。月のあの引き締まった体を見れば、ただの巫女じゃないことくらい分かるわ」
そこへ、宗桂が楊枝で歯を鳴らしながら割り込んできた。
「そういえば婿殿、わしの孫、大橋家の跡継ぎはまだか?」
「今は無理ね。でも来年以降には、歴史の通りに男の子と女の子が生まれるはずよ」
宗古は不敵に微笑むと、おっさんに隠れて吉川だけに見えるように、唇を動かした。
(おっさんの邪魔と、初心で意気地なしの刑事さんのせいで、当分は無理ね)
真っ赤になる吉川を尻目に、宗桂は懐から短い筒状の包みを取り出した。「これは堺の知人から譲り受けた短筒じゃ。これで宗古を守ってくれ」
吉川はその重みを受け取り、手慣れた動作で構造を確認した。令和の刑事として訓練を積んだ彼は、女性の扱い以外は何でも完璧にこなす。
「万難を排し、お嬢様をお守りします」
その真剣な眼差しに、宗古は「お嬢様だなんて」と顔を綻ばせ、これ見よがしに胸を張った。
「男装だけど、さらしが本当にはち切れそう。……刑事さんが見ている前で、また大きくなったみたい」
吉川の耳元で囁き、ウィンクを投げる。その肉感的な誘惑に、吉川の下半身は再び熱い脈動を始めた。
広間に出た三人は、城主・堀尾吉晴と、小那姫にまみえた。
「何かわかったか」という吉晴の問いに、宗古は「月の小面がどのように、なぜ消えたのか。確信に近い考えはございます」と凛々しく答えた。
そこへ、囲碁の名人・本因坊算砂が現れた。
直後、部屋に一人の女が音もなく、まるで影が滑り込むように入ってきた。
算砂の娘を称する、歩き巫女の「月」。
三十代の艶やかな色気を纏いながらも、その四肢は無駄な肉がなく、鋼のようにしなやかだ。**歩く際に衣擦れの音すらさせず、その視線は常に無意識のうちに相手の頚動脈や死角を捉えている。**まさしく、闇に生きる「くノ一」のそれだった。
月の瞳が吉川を捉えた瞬間、驚愕の色が走った。彼女は即座に小那姫を盗み見、次いで再び吉川の顔を、何事かを測るように見つめ続ける。一方の小那姫は、月と吉川を交互に見比べ、その唇を舌で湿らせた。
続いて、家康の家臣・勝吉との将棋対局が始まった。
盤に向かった宗古は、現代の世が生んだ超攻撃的戦法『ゴキゲン中飛車』を繰り出した。今までの定跡を根底から覆す異次元の捌きに、勝吉はなすすべもなく投了に追い込まれる。
「とんでもない。見たこともない筋だが、なんと美しく、力強い」
対局が終わる頃、家康からの急使が飛び込んできた。
「家康殿がすでに江戸を発たれ、肥前名護屋城へと向かわれたとのこと。皆を連れて参れとの仰せだ」
「当然、私も行きます。私の横にいる、この『大切な許嫁』を連れてね」
宗古が全員を威圧するように言い放ち、吉川の肩を抱き寄せた。
小那姫の執着、月の殺気、そして月の能面を巡る闇。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いた巨大な要塞、肥前名護屋城を舞台に、運命の盤面はさらに激しく回転を始める。
吉川は懐の短筒を握りしめ、襲いかかる嵐の予感に、武者震いを禁じ得なかった。




