第一話 令和から戦国時代へ
とある令和の年、十二月の京都。
中京区に位置する京都能楽堂会館の空気は、張り詰めた氷のように冷たく、それでいて異様な熱を孕んでいた。
「真女流名人戦」五番勝負、その大舞台。
本舞台の中央に据えられた将棋盤を挟み、二人の対局者が対峙している。
現タイトル保持者、二十五歳の堀尾羅美亜。
袖の広い袴を優雅にさばき、盤上に指先を伸ばすその姿は、冷徹な美しさを放っていた。弓形の眉の下、鋭く切れ上がった瞳が、長い睫毛の影から対局相手を射抜く。その視線は、盤上の駒を掃き捨てるかのように傲慢で、まさに「悪役令嬢」のそれであった。
対するは、挑戦者の女子高生、大橋想子二級。
丸みのあるボブヘアに、あどけなさを残した洋装。大きな瞳は、勝負の瀬戸際だというのに盤面を捉えていなかった。彼女はふいと首をめぐらせ、舞台奥へと続く通路――「橋掛かり」の闇をじっと見つめている。
客席の最前列には、街の重鎮である市会議員や、泰然と構える能楽師たちが並ぶ。その中に、抽選で幸運を射止めた新米刑事、吉川の姿もあった。吉川はアマ初段の腕前だが、今は戦況よりも、対局者二人が放つ異様な「圧」に気圧されていた。
「――2六歩」
堀尾が低く、鈴の鳴るような声で指し手を告げた。
無数のカメラフラッシュが彼女の白い肌を真っ白に焼き付ける。その直後だった。
――ウィィィィン……。
静寂を切り裂く、不吉な機械駆動音が舞台袖から響いてきた。
「……何だ、あれは」
吉川が思わず身を乗り出す。関係者席からも困惑のざわめきが広がった。
橋掛かりの奥、揚げ幕が静かに揺れ、そこから一台の電動車椅子が姿を現した。
乗っているのは、真っ白な装束を纏った人物。顔には、生気を感じさせない「小面」の能面が張り付いている。
車椅子は迷いのない動きで、対局中の二人が座る本舞台の「後座」へと、ゆっくりと、確実に進んでくる。
「……、血よ! 血が落ちているわ!」
堀尾が弾かれたように立ち上がった。彼女の指さす先、檜の舞台には、点々と赤黒い滴が染みを作っている。
その瞬間、揚げ幕の奥で、鼓膜を震わせる爆発音が轟いた。
「なっ……!?」
吉川が立ち上がると同時に、白い煙が舞台を包み込む。カメラマンたちのフラッシュが煙の中で乱反射し、視界を白く塗り潰した。
「ナイフが刺さっている……!」
煙の中から、堀尾の悲鳴に近い叫びが響く。
吉川が舞台へ駆け上がると、堀尾が車椅子の人物の胸元を震える手で大きく広げていた。白装束の胸元には、柄まで深く突き刺さった凶器。
そこへ、大橋二級が背後からぬるりと顔を出し、熱を帯びた瞳を輝かせて囁いた。
「これ、殺人事件ね。ためらい傷一つない、心臓一突き。……綺麗」
十五歳の少女とは思えぬ、艶を帯びた早口。
吉川は戦慄しながらも、本能的に叫んだ。
「京都府警だ! 誰も動かないでください! 救急車と応援を要請する!」
車椅子に座っていたのは三十代の女性だった。吉川が駆け寄ったときには、その身体からはすでに命の温もりが失われ、能面のような顔の奥の瞳は虚空を見つめていた。
騒然とする現場の中、吉川はふと、大橋と目が合った。
彼女は返り血のような鮮やかな笑みを浮かべ、吉川の耳元に唇を寄せた。
「刑事さん、今晩……明晰夢を見るかも。私と一緒に、来てくれる?」
その日は、怒涛のような捜査で過ぎ去った。
吉川は京都府警の仮眠室で、泥のような眠りに落ちた。
意識が沈んでいく中、誰かが隣のベッドに潜り込んできたような甘い花の香りと柔らかな体温を感じた気がしたが、瞼を持ち上げることはできなかった。
「……おはよう。よく眠っていたわね」
聞き覚えのある少女の声に、吉川は目を開けた。
そこは、警察署の殺風景な天井ではなかった。煤けた太い梁と、湿った土と草の匂い。
横には、あの瞳の大きな十五歳の少女――大橋想子が座っていた。
彼女は現代の洋装ではなく、柔らかな小袖を身に纏い、吉川の顔を覗き込んでいる。その距離は、吐息が触れ合うほどに近い。
「ここは……?」
「京都よ。でも、刑事さんのいた場所とは少し違うみたい」
想子は楽しげに、格子窓の外を指さした。
そこには、現代の喧騒など微塵もない、瓦屋根と土壁が連なる古い京の街並みが広がっていた。
「天正十九年。豊臣秀吉様が『太閤』になられた年……かしら」
一五九一年。
戦国の残り香が漂う、絢爛にして残酷な時代。
吉川と想子、二人の時間は、あの能楽堂の惨劇から四百年の時をさかのぼり、動き始めた。




