第十六話
夢でも見ているのかと思った。
とびきり悪い夢でも、見ているのだと。
手が震えてどうにもならない。
ウィラは静かに日記帳を閉じると箱の中へ戻した。
それから、ベッドに倒れ込んでゆっくりと目を閉じた。
深く息をついて、落ち着かせようとする。
この日記に書かれていたことが事実であるのならば、つまりこれは、ウィラの両親は正式な夫婦ではなく愛人関係だったということになる。
そして、ウィラには本当に伯爵の血が流れているのだということにも。
「だから、同じ・・・・・・」
あの日、ディートリヒに言われた言葉を思い出す。
同じ血が流れているのなら、本物のアイゼアとウィラが似ているのも不思議な話ではない。
ディートリヒに言われて思い浮かんだことが現実になってしまうなんて、嘘だと思いたい
幼い頃から抱いてきた父のイメージが音を立てて崩れていくようだった。
母のことを深く愛していた優しい人で、貧しいながらも共に暮らしてきた。
ところが実際は、名高いエルディック伯爵で、母とは表には出せないような関係だったと。
知りたくなかった。
けれど、いつかは分かることだったのかもしれない。
どうにも落ち着かない気分のままで、今夜はとても眠れそうもなかった。
ウィラは部屋を出て、こっそりと庭へ向かう。
この時間帯だ、さすがに誰もいなかった。
王都の別邸の庭は、地方にあるエルディック伯爵邸ほどの広い庭ではないが居心地が良く感じられた。
涼しげな夜風の吹き抜けるそこは、しんと静まっていてウィラの足音以外は聞こえない。
「お母さんは、幸せだったのかな」
誰に問うわけでもなく声に出す。
当然その声に返事はなく、空に溶けて消えて、それで終わり。
自分が長年信じてきた家族の関係が壊れて行って、不安になる。
けれど、父も母も既にこの世にはいないので確かめることすらできやしない。
そっと空に手を伸ばした。
昔、よく孤児院にいた星空が好きなシスター。
彼女の正体は考えるまでもなくミルドレッド夫人だろう。
日記には、よく孤児院へ伯爵夫人という身分を隠しシスターとして訪れていたと綴られていた。
実際にウィラもフェイも、星空のことに詳しいシスターに面倒を見てもらっていたことがある。
シスターアルマが無理にでもウィラをエルディック家へ送り出したのも、ミルドレッド夫人のことを知っているからでウィラのことを任せたいと思っていたからなのかもしれない。
隠されていたことが、いくつも繋がって当時の真実が見えてくる。
アイゼアは、どこまで知っているのだろうか。
「よお」
「うわっ!?ど、どこから・・・・・・!?」
突如声をかけられて驚き飛び退いてから、それがアイゼアだったことに気付いた。
なんというタイミングなのだ。
「今来たとこだよ。お前が鈍感なだけだな」
先程もこんなやり取りをしたばかりの気がする。
足音は聞こえなかったが、と思ったが彼の職業を考えれば当然だった。
まったく、心臓に悪い。
「お前こそ、こんな時間になにしてんだ」
「いや、それは・・・・・・ちょっと、眠れなくて夜風に当たりたくて」
「そうか」
そして二人の間には沈黙が訪れる。
アイゼアはウィラがずっと動揺していることに気づいている。
だからこうして、何も聞かずじっとウィラから話すのを待ってくれているのだ。
「・・・・・・アイゼアは、私が本当に伯爵の血を引いているってこと知ってたの?」
「まあな。妹がいるなんて聞いてなかったから、色々こっちでも調べたからな」
「・・・・・・じゃあ、なんで言ってくれなかったの」
ウィラが拗ねたように言うが、アイゼアは平然として言葉を返した。
「なんでってそりゃあお前、こういうのは自分で見つけなきゃ面白くないだろ」
「面白く・・・・・・?」
「そ。大事なことなんだから、自分の目で確かめないと。俺みたいないきなりできた偽の兄貴に言われたって信じられないしつまんないだろ」
そんな視点から言われるとは思わなかった。
面白いかどうか。
確かにアイゼアらしい考え方だ。
でも、自分も深刻に捉えすぎていたのかもしれない。
父と母が愛し合っていたことも、自分を愛してくれたことも変わらない事実なんだ。
その証拠に、伯爵は母にいくつもの財産を遺していったと。
恐らくそれが母が溜め込んでいた謎の貯金の正体であり、ウィラが生きていく助けになった。
「帰りたいか?」
「え?」
おもむろにそんなことを聞かれた。
「お前が探していたエルディック家の真相は全て解き明かされたんだ。元の生活に戻りたいんなら、これでいつでも心残りなく戻れるだろ」
「確かにそうだけど・・・・・・」
アイゼアの言う通り、ウィラは今すぐ孤児院に帰ることも可能なのだ。
日記にあるように、おそらくミルドレッド夫人もそれを許容してくれる。
だがしかし、自分のことが解決したからと言ってそれで全てさよならとはいかない。
「でも、まだあなたのことが残ってるでしょ。まだ事件が解決していないんだから、ここで手を引く訳にはいかないでしょ。最後まで私も付き合わせてよ」
「ははっ!そりゃあありがたい話だ」
大口を開けてアイゼアは笑い、ウィラの頭をわしゃわしゃと撫でる。
子犬のような扱いにウィラはムッとした顔になったが、その一方で彼の真意は分かっていた。
(きっとアイゼアは、私がここに残りたがってることを分かっててわざと聞いたんだ)
そうすれば、口実ができる。
目的は果たしたのだからいつでも帰れる状態のウィラが、ここにいつまでも残り続けることが出来る。
なんでこの人はこんなにも優しいのだろうか。
意地悪で口が悪くて、からかってばかりなのに、ウィラが欲しい言葉は必ず言ってくれる。
こんなに優しくされてばかりじゃ、世界中の人が自分に優しくしてくれるんじゃないかと馬鹿げた錯覚をしてしまいそうだ。
しかし、なんだかこうして色々と並べてみると、彼ってひょっとして・・・・・・なんて考えが浮かんでくる。
「・・・・・・ねぇ、アイゼア。アイゼアって私のこと・・・・・・」
「何?お前のことが、なんだって?」
「わっ、ちょ、近い・・・・・・!」
普段からかわれている仕返しでもしてやろうかと思ったが、全て言う前に遮られた。
それどころか、ぐいっと顔が近づいてきて耳元で囁かれる。
「ほら、言ってみろよ」
「やだ!ばか・・・・・・!」
ものすごく弄ばれている。
反撃してやりたいところだが、幼稚な言葉しか出てこなかった。
これでは、あなたって実は私の事結構大好きでしょ?なんて聞く方が恥ずかしい思いをすることになる。
「もうっ!離してったら!」
「ははっ!悪かったって、そんなに怒るなよ」
やっぱりわざとからかっていたようだった。
いつか絶対に仕返しをしてやる!とウィラは内心で意気込む。
「ま、最悪の上司のことまで知られちまったし、そう簡単に手を引かせてやれねぇのはこっちも同じなんだよな」
「やっぱりアイゼアとディートリヒさんって、仲が悪いの?」
「なんつーか、腐れ縁みたいな。てかあいつ今はそんな名前してるんだな」
「え?本名じゃなかったの?」
「そりゃそうだろ。俺だってこの名前は俺のものじゃないし」
「ああ、確かに・・・・・・」
よく考えてみれば、国家組織の一員が潜入しているのだから本名なわけがなかった。
しかし、ディートリヒとアイゼアの関係性も気になるところだ。
腐れ縁という言葉の通りに、お互いがお互いのことを話す時は嫌そうな顔をするのに、心の底から嫌っているようには見えない。
それに、アイゼアたちの本名も。
いつか知ることができるだろうか。
考えてみれば、ウィラはアイゼアについて知らないことばかりだった。
彼の職業や秘密主義なところが主な原因なのだろうが、時間はまだいくつもある。
いつか事件が解決してアイゼアが故郷へ帰ってしまう前に、これから知っていけばいい。
ウィラはここを選んだのだから。
ミルドレッド夫人はウィラが選ぶ道を選ばせてくれる。
エルディック家から離れたがったら、すぐにでもそうさせてくれる。
それでもウィラがここにいるのは、自分の意思だ。
(これが私の、選んだ人生・・・・・・)
最初は成り行きだった。
成り行きで伯爵家の娘を演じることになって、後ろめたくて仕方がなかった。
けれど、ミルドレッド夫人が言ったように自分の意義というものが分かってからはそうは思わなくなった。
「ねえ、アイゼア」
「なんだ」
「私と一緒に踊ってくれる?」
そっと手を差し出せば、恭しく騎士のように手を取ってくれる。
立派な楽団の演奏がなくても、綺麗なドレスで着飾っていなくても、ウィラはそれで良かった。
星明かりの下、二人は踊る。
あの日、舞踏会で踊れなかったことのやり直しをするかのように。