プロローグ
どうしてこんなことになったんだっけ。
ぼんやりとする頭を、何とか働かせる。
悪い夢でも見ているのかと思った。
でもこれは幻でもなんでもなく、月明かりにに照らされた彼の姿は血に濡れている。
この家、エルディック伯爵家に来て一週間のことだ。
自分がここへ呼ばれた理由について、この家の事情について、この家の本当の娘について探ろうとしていたはず。
こんな真夜中なら誰もいないと思い、昼間は入れなかった図書室の奥にある書庫へ侵入しようと考えて廊下を通ったその時、庭の怪しい人影に気がついた。
それで、泥棒かと怖くなって様子を見に行ったら、赤黒い血を浴びて恐ろしい形相になった兄がいて───────。
「おい」
「ひぃっ・・・・・・!」
逃げようと後ずさると、低い声で制されて反射的に悲鳴が口から溢れ出る。
見慣れたはずの彼の赤い瞳が妖しく輝き、今では恐ろしいものに感じられる。
「逃げるな、別に危害は加えねぇよ」
「やっ、やだっ!」
「騒ぐなよ、何もしねぇって。ほら落ち着け、屋敷の連中が起きちまうだろ」
聞いたことの無いぐらい低くて冷たい声に動揺してしまう。
逃げるなと言われても大人しくできるわけが無い。
どうにか逃げようとするが、悲しいことに足がすくんで動けない。
震えることしか出来ず、ついには追い詰められてしまった。
「まったく、こんな時間まで起きてるとは思わなかったぞ。いい子に寝てれば良かったのに」
その冷ややかな笑みが怖くて、思わずガタンっと音を立てて手に持っていただけの明かりの灯っていないランタンを落としてしまう。
「あ、あなた誰ですか!?」
いつもは首元まできっちりと閉めているはずの、シャツの胸元は開けて袖は捲っている。
その上ところどころ血で汚れていて、髪も乱れている。
服装からして平生の彼とはまるで違い、さらに口調まで違う。
彼はもっと優しくて親しみやすい人だったはずだ。
こんなに荒っぽい口調では無いし、人に威圧感を与えるようなことは言わない。
それに何より、彼はこんな顔で笑わない。
しかし、必死に叫んだウィラを前にして彼はいつものような優しい笑顔を浮かべて、いつもとは違う低い声でこう言った。
「俺はアイゼアだよ、お前のお兄ちゃんだ。・・・・・・ただし、偽物だけどな」
彼はそう言うと、赤い瞳を細めて笑った。