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第5話 哲学サークルの長は哲学をすすめない

 あの新入生歓迎会から一週間が経とうとしている4月の最後の日。僕は極度の暇に悩まされていた。

 うすうす気が付いていたことではあったのだが、僕の時間割はアンバランスにもほどがある。必修との兼ね合いだったり、履修したい講義がどのコマにあるかだったりの都合で、こんなことになるのは確かにしょうがないことではあるのだが、それにしても、水曜日はスカスカすぎる。今日のように、バイトもないとなったら、いよいよやることがない。ハワイ行って水切りしてこようかなと考えてしまうくらいにはやることがない。


 だから、しかたなく部室に来てしまった。やることがないから、強引にやることをみつけようと考えたわけだ。

 1階にいるおじさんに言えば、部室の鍵を渡してもらえる。その際、学籍番号と名前を問われるのだが、幸い僕はもう部員扱いになっているみたいで、鍵の譲渡でてこずることはなかった。

 東2号館の階段を上るのは新入生歓迎会以来だが、あの時ほど疲れることなく上り終える。多分あの日は、緊張していたせいで疲れもオーバーに感じてしまったのだろう。なんか、ホラゲーしながら心拍数を把握されているみたいでちょっぴり恥ずかしい。


 鍵をさし、ひねると、確かな感触とともに、ガチャンという音がした。オゥ、ディスイズエクスタシーアイハヴネヴァーイクスペリエンストゥビフォー。つまり、クセになりそうな感触である。


 なんとなくゆっくりドアを開けて、そろりそろりと部屋に入る。少し暗いので、スイッチを探していると、そばにあることに気づく。縦長に連なっている3つのスイッチがそれぞれどこと連動しているかはわからなかったから、まとめて全部押す。電気がつくと同時に鈍い音を立てて換気扇も回り始めてしまったので、あわてて一番上のスイッチだけをオフにする。幸い、一発で換気扇は止まってくれた。

 歓迎会の日のような温かさは嘘のように消えていて、かといって寒いわけでもない部室。少し息を吸うと、慣れない古本のにおいがする。

 慣れる日のことを想いながら、歓迎会のときと同じ場所にある座布団に座る。そして、周囲を見渡す。この位置はきっと定位置になって、この景色はきっと「いつもの」になる。そうであってほしい。


 僕はちょっと休んでから探索を開始した。この部室の隅々までを把握し、確認する。それが、僕が僕に課した今日のやるべきこと。


 最も目を引くのは、やはり入り口から見て真正面――低めの机を隔てて真正面にある、横長の本棚であろう。比較的新しいサークルの割に、並ぶ本たちには年季が入っている。近づいてみると、形だけとはいえさすがは哲学サークル、哲学の有名な本が並んでいる。日本語に訳されたものもあれば、原文のものもある。だれが読むん、これ。どうしてこんな汚れとるん。


 どこかの少年名探偵はここで背後のケアを怠って毒薬を飲まされたという。僕はそうはなりたくないので、一応振り向く。

 数分前まではいなかったはずの人が、いつの間にかちょこんと座っていることに気づく。


「うわっ」


 反射的にそんな言葉が出てしまう。


「びっくりしたよ、鍵がないから。やあ滝川たきがわくん、元気してた?」


 新入生歓迎会以来の邂逅。この「哲学サークル」の長、秋刀魚 大輔(さんまだいすけ)である。


「なんか言ってくださいよ」

「いやあ、なんか真剣に本棚見てるし、邪魔しちゃ悪いかなあってね」


 秋刀魚さんはあはは、と笑っている。その笑顔を見ているうちに、なんだか、問い詰めるのもばかばかしくなってくる。


「で、なにしてたの?探し物?」

「ああいや、別になんか探してるってわけじゃないんですけど、なんというか……暇だったので、部室を把握しとこうと思って」


 秋刀魚さんはそれを聞いて、感心感心と言わんばかりに大げさにうなずく。


「ま、ゆっくりしていってくれよ。もう泊まる勢いでゆっくりしてくれ、バレても自己責任だけど」


 秋刀魚さんは「なんてね」と付け足す。しかし、これくらい微妙な仲の年上から繰り出された冗談ほど、リアクションが難しいものはない。おそらく、現代の技術ではまだ模範解答を確立できないだろう。だから僕は、有力な対処法、「愛想笑い」を発動。慣れるまで時間を要するが、習得すれば簡単に世を渡れるすぐれもの。タヌキ型ロボットもほしがるひみつ道具である。


「秋刀魚先輩は、何しに来たんですか」

「……そうだ、本棚目当てで来たんだった」


 秋刀魚さんはすくっと立ち上がって、本棚を見つめる。もうどこに何があるかを把握しているかのように、スムーズに目的の本を見つけ出し、慣れた手つきで取り出す。


「これこれ、『純粋理性批判』」


 秋刀魚さんが見せつけてくるその本には、嫌なイメージがある。


「うわあ、カント……。受験期は彼が問題児過ぎて悩まされましたよ」

「わかる。カントくらい賢いと、一周回って馬鹿に見えるまであるね」


 秋刀魚さんはそれでもその本が必要みたいで、大事そうに抱える。


「でも、授業で使うんだよねえ……」


 秋刀魚さんはわかりやすく落胆している。その姿を見て、ある疑問が浮かび上がってくる。


「やっぱり、哲学って、必要なんですかね」


 僕の素朴な質問に、秋刀魚さんは真剣に悩んでくれた。


「うーん、僕は哲学のスペシャリストなんかじゃないから、あくまで1人の先輩目線になっちゃうけど」


 秋刀魚さんはそんな保険をかけながらも、自信をもって話してくれた。


「僕は、哲学、やんなくていいと思う。いやーさ、仮にも哲学サークルの長やってるやつが何言ってんのって感じだけど。哲学なんて、ほんとは触れないのがベストなんだよねえ」

「そんなもんなんですかね」

「知っておいて損はない、なんていう人もいるけど、結局、1知ろうと思っても5の知識が必要なのが哲学だし、仮に1つ何かが解決したところですぐに次の疑問が出てくるのが哲学なんだろうなって思う。数学みたいな答えはないしね、いまだに」


 僕は秋刀魚さんの意見を自分でも驚くくらいにスッと理解することができた。ここまで「腑に落ちた」と言えるのは初めてかもしれない。


「まあ、そういうことよ」


 噛み締めるように秋刀魚さんはそう言って、帰る支度を始める。リュックに「純粋理性批判」を詰め込んで、立ち上がった。


「戸締りよろしくね」


 そして、ドアの前に立って、もう一度振り向く。その顔には笑みが浮かんでいる。


「『哲学なんかやってたらアカンと』ってね、カントだけに」


 微妙な仲の年上から繰り出されたダジャレほど、リアクションしづらいものはない。

 でも僕は、自然と笑ってしまった。

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