08 アウラの幸せ
数秒の沈黙の後、教授はアウラに静かにうなずきました。
今際の際に、なぜうなずいたのかと己を責めることになるのですが、このときは疑問も警戒心もわきませんでした。
なぜなら、アウラは一糸もまとわぬ姿で、武器すら持っていなかったのです。いざとなれば取り押さえられると考えたのは、仕方のないことです。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アウラがふわりと笑い、最後の一歩を進めました。
これでもう、教授の間合いの中です。生殺与奪は、教授の手に握られたと言っていいでしょう。
だというのに、教授の心には不安が広がっていきます。
「それで、私をどうなさいますの?」
すうっ、とアウラが両手を広げました。
アウラのすべてが、教授の目の前で露わにされました。若く美しい女性の見事な裸体に、さすがの教授も声を失います。
「殺しますか? 汚しますか? それとも人質として攫いますか?」
「難しい選択ですな」
「まあ、どれを選んでも、あなたは破滅し、私は幸せになりますけどね」
「幸せ……ですか?」
「ええ、そうです。ふふ、詳しくお話しいたしますね」
その時アウラが浮かべた笑みに、教授はゾクリと震えました。
「女」であることを全面的に押し出した、男にとっては悪魔のような笑顔です。
こいつはヤバイ、と百戦錬磨のスパイが戦慄を覚えました。逃げろ、と本能が警告を発しましたが、ピクリとも動けません。
「まず、私が殺された場合。
私という弱点がなくなり、わが君はさらに高みに登ることができます。ええ、確かに私は死んでしまいますが、それによってわが君の飛躍に貢献できるのです。婚約者冥利につきるというものです」
その笑み、声音。
ハッタリではない、と教授は感じました。心底本気でそう思っている、ということが伝わってきたのです。
「次に、私が汚された場合。
私にそんな痛みを強いてしまったと、わが君は全力で慰めてくださるでしょう。これが私にとってどれほどの喜びか、おわかりになりますか?」
「さあ……わかりま、せんな」
「ええ、そうでしょう。そうでしょうね、おわかりにならないでしょうね」
アウラがとろけるような顔になりました。
その淫靡な表情に、教授の意識が持って行かれました。アウラの手が伸びてきて、教授のほおに添えられました。教授は、その手を払うことが、どうしてもできませんでした。
「ほんの一時であれ、私がわが君を独占できるのです。わが君が、心を込めて私を慰め、愛でてくださるのです。夢のように幸せなことではありませんか」
「汚されたお前を……捨てるという可能性はないのか?」
教授の口調が崩れました。もう取り繕っている余裕がありませんでした。
「その可能性は、まったくありません」
言下に否定し、アウラがたしなめるように教授のほおを撫でました。
「それは、あまりにもわが君を知らぬ発言です。さきほど申しましたよ。私は、野の花にもなれぬ毒草だと」
優しく、ゆっくりと、ただほおを撫でているだけだというのに。
その淫靡な感触に教授の体が熱くなり、意識が蕩かされそうになります。
「糞尿にまみれて生を受け。
ゴミを漁って命ながらえ。
物心ついた時には、俗物たちの愛玩物となるべく調教されていた。
私は、そんな女でございます。いまさら男の一人や二人に汚されたところで、何の変わりがありましょう」
「愛玩……物……?」
教授の顔色がサッと変わりました。
「お前、まさか……花家の……」
アウラの人差し指が、そっと教授の唇に当てられました。
アウラが、仄暗い光を宿した瞳で教授を見つめました。その瞳に、教授は本能的な恐怖を覚えました。
「その闇は、未来ある若者の前で語るべきではありません。教育者でございましょう?」
教授が言葉を飲み込みました。アウラは小さく頷き、教授の唇を人差し指でひと撫でしました。
「さて。
わが君は、そんな私の全てを知ってなお、 私を愛でてくださるのです。
あなたにそれができますか? できないでしょう? ええ、そうですとも。それが普通の、良識ある人間というものです」
教授の唇を撫で終えた人差し指を、アウラはそっと自分の唇に当てました。
「わが君は違います。
アブラムシすら寄りつかぬ私を、この毒草の身を、それはもうおいしそうに、ムシャムシャと食べてくださるのです。そんなわが君が、あなたに汚された程度で私を捨てるなど、ありえません」
そう言い切るアウラに、教授は追い詰められていきます。
「最後に、私が人質として攫われた場合。
わが君自らが指揮をとり、追いかけてくださるでしょう。無事助け出されれば、ひどい目にあわせたと慰めてくださいます。命落とせば、わが君の弱点が減るのは申し上げた通り」
いえそれよりも、と何かに気づいたアウラが、歓喜に震えた声で続けます。
「そうですわ。
風家の総力を挙げて救えなかったとすれば、わが君の人生で痛恨の出来事ではありませんか! 生涯悔やみ、私を忘れずにいてくださります。ああ、これ以上の幸せなんて、私、思いつきません」
アウラはこの上なく幸せそうな顔で、目に滲んだ涙をぬぐいました。




