07 婚約者・アウラ
ノトスの鼻を、何かがくすぐる感触がありました。
──ああもう、誰だ。
眠りに落ちてから、それほど時間は経っていません。ようやく落ちた眠りを妨げられるのは非常に不快でした。
──邪魔をするな、少し眠らせろ。
顔をそむけましたが、しつこく鼻をくすぐってきます。
ああうっとおしい、とノトスは眠りの泉から浮かび上がり、不機嫌極まりない気分で目を開けました。
そして見えたのは。
柔らかな夕陽の中、ふんわりとした金色の髪を輝かせた、かわいらしくも美しい女性でした。
「ただいま戻りました、わが君」
目を覚ましたノトスに、彼女は心地よい声で呼びかけ、喜び一杯の笑顔を浮かべました。
「これはこれは……わが婚約者殿でしたか」
その笑顔を見ただけで、ノトスの怒りは霧散しました。鼻をくすぐっていたのは、彼女の美しい金髪のようです。
「いたずら者は、この美しい髪かな?」
ノトスは彼女のふわりとした髪を一房つかみ、口をつけました。
それから、彼女の髪を優しく引っ張ります。彼女は引かれるままに身をかがめ、ノトスと軽く唇を重ねました。
「いつ戻ったんだい、アウラ」
「今しがたです。わが君に早く会いたくて、真っすぐにここへ来てしまいました」
「嬉しいよ。私もアウラに会いたかった」
次のキスは、深く長いものでした。アウラの体を力いっぱい抱き締め、会えなかった二日分のキスを貪ってから、ノトスはようやくアウラを離します。
アウラは幸せそうに笑いながら、ことん、とノトスの胸に頭を置きました。
「大学の研修合宿はどうだった?」
「はい、とても有意義でした。仲良くしてくださる方もできましたよ」
「それはよかった」
「ふふ。でも、わが君にお会いできなくて、寂しくて仕方ありませんでした」
十九歳となり大学へ進学したアウラは、おとといから新入生の歓迎会と親睦会を兼ねた、二泊三日の研修合宿に参加していました。
ベンヌの一件、決行日を今日としたのはそれ故です。
お互いにすべてを知り尽くし、それを至上の喜びとしている二人ですが、それでも相手に知られずにいたいことはありました。
もちろん、後々にはお互いに知ることになるのですが、心の整理がつくまでは秘密にしておきたい、そんなささやかなわがままは、許されてもよいでしょう。
「少しお疲れではありませんか、わが君」
ノトスの顔をじっと見ていたアウラが、労わるような目になりました。そんなアウラの頭を優しく撫でながら、ノトスは小さなため息をつきます。
「そうだね。少しだけ、疲れてるかな」
「お茶をお持ちしましょうか?」
「いや、それよりもここにいてほしい」
「よろこんで」
アウラ様、とたまりかねた侍女が呼び掛けてきました。
「再会が嬉しいのはわかりますが、せめてお着替えを」
「もう。わが君がご所望なのですよ? 着替えは後ではいけませんか?」
「いけません。外出着のままですよ。汗もかかれておられるでしょう」
「むう……」
ほおを膨らませたアウラを見て、ノトスは笑いました。
「侍女を困らせてはいけないよ、アウラ」
「だって、わが君が望まれたのですよ?」
「そうだったね。では、こうしよう」
ノトスは体を起こすと、膨らんだアウラのほおに口づけしました。
「私も汗をかいている。一緒に湯浴みをしよう」
「まあ」
ノトスの言葉に、アウラがほんのり頬を染めました。
侍女も顔を赤くし、ふう、とため息をついています。全くこの二人は人目も気にせずイチャイチャして、なんて思っているのかもしれません。
「では私が、わが君を洗って差し上げますね」
「それはうれしいな」
先にベッドを降りると、ノトスは恭しく手を差し伸べます。
その手を取り、アウラも静かにベッドを降りました。
「今日は、少々甘えたい気分なんだ、アウラ」
「あら、そうですの」
ノトスの言葉に、アウラの笑顔が切り替わりました。
無邪気で甘えん坊な女の子から、優しくおしとやかな女性へ。ふんわりとした雰囲気の中に、しっとりとした落ち着きが加わり、まるで別人のようです。
「では今日はお姉さんとして、わが君を思う存分甘やかして差し上げましょう」
はしゃいでいた口調も、落ち着いたものとなりました。
そんなアウラの変化にノトスは驚く様子すら見せず、アウラが広げた腕の中に入っていきます。
立って並ぶと、ノトスはまだアウラより頭一つ小さい背丈です。そんなノトスの頭を、アウラはその豊かな胸に押し付けるように抱き締め、ひたいに優しくキスしました。
ひたいに受けたキスの感触に、ノトスは「ああ……そういうことか」と得心しました。
ノトスがまだ五歳の時に、婚約者候補としてやってきたアウラ。
ですがそれは表向きのことで。
幼くして一人となったノトスを思う存分甘やかし、依存させ、やがて大きくなった時に色香で骨抜きにすべく送り込まれた、まさしくハニートラップのための女の子でした。
だから今回のベンヌの件は、ノトスを心身ともに疲れさせたのでしょう。
「どうかなさいましたか、わが君」
「うん? いやなに。私の婚約者は、本当に素敵な女性だと思ってね」
「身に余るお言葉。光栄でございます」
ハニートラップたるアウラを返り討ちにし、逆に骨抜きにして、そのすべてを我がものとしたノトス。
ただ一つ誤算があったとすれば。
我がものとしたアウラに、ぞっこん惚れ込んでしまったことでしょう。
「早く大人になって、君を妻と呼べるようになりたいよ」
「ふふ、もうすぐですから。焦らずとも大丈夫です」
アウラはもう一度ノトスのひたいにキスをしました。
「私は、何があってもわが君から離れません。わが君が私をお捨てにならない限り、私はわが君が望まれるままに妻となりましょう」
「私がアウラを捨てることなど、ありえないよ」
「ええ、承知しております。ですから私も誓いましょう。私が夫と呼ぶのは、この命ある限り、わが君だけだと」
そして。
夫たるわが君がどこへ行こうとも。
たとえそれが地獄の底だとしても。
私は、喜んでお供させていただきます。
そう言って心からの笑顔を浮かべるアウラのことが、ノトスは愛しくて愛しくてたまらないのでした。




