09.完全記憶能力
疲れているところで怒りに任せて魔術を使うなんて無茶をしたせいで、シルヴィアは疲労困憊となってしまいました。
ミズハに抱きかかえられ、客人用の寝室に連れて行かれました。優しくベッドに降ろされたところまでは覚えているのですが、そこですとんと眠りに落ちてしまいました。
――ふわり、と眠りの泉から浮かび上がりました。
目を開くと、ニンリルが分厚い本を開いている姿が見えました。ぺらり、ぺらりとページを次々とめくっています。読んでいるというより眺めているという感じです。いったい何の本でしょうか。
「あ、起きた?」
全ページをめくり終え次の本に手を伸ばそうとした時、ニンリルはシルヴィアが起きていることに気づきました。二人きりだからでしょう、いつもの話し方です。
「うん……」
ニンリルにうなずきながら起き上がりました。スッキリとした目覚めです、けっこう寝ていたのでしょうか。
「どれぐらい寝てた?」
「一時間くらいかな」
ニンリルは手にした本を置くと、水差しからコップに水を注ぎ渡してくれました。
礼を言って受け取り、ゆっくりと飲み干すシルヴィア。ふと、ニンリルの足元にある、分厚い本が山積みとなった台車に気づいて首を傾げます。
「その本、どうしたの?」
「退屈なら図書室から本を持ってきていいと言われたから、借りてきたの」
それは花家が独自に編集した、この国の通史でした。建国当時から先々代当主が没した四十年ほど前までの、ざっと四百年分。王立アカデミーの歴史学者が借りに来ることがあるほどの貴重な資料です。
「王国史の講義でレポートの課題が出てて。参考になるかなと思って読み始めたらすごく面白くて、一気に読んじゃった」
「……え、それ全部読んだの?」
台車の上には二十冊ほどありました。たった一時間でこれを全部読んだというのでしょうか。
「ううん、さすがに全部は」
それはそうよね、とうなずきかけたシルヴィアですが。
「あと三冊、まだ読めてないんだよね」
「……は?」
「ちょっと待ってて、すぐ読んじゃうから」
ニンリルが本を手に取り、ページをめくり始めます。ぺらり、ぺらり、と、シルヴィアにはただページをめくっているだけにしか見えないのですが。
「よし、あと二冊!」
五分と経たずに全ページをめくり終えると、ニンリルは次の本へと手を伸ばしました。
「あの……今ので、読んだの?」
「うん」
冗談――を言っている顔ではありませんでした。シルヴィアも試しに一冊手に取ってみましたが、けっこう細かい字でびっしりと文字が書かれています。難しい言葉もたくさん使われていて、シルヴィアなら一週間かかっても読めないかもしれません。
「よし、読んだ!」
およそ十分後。
残りの二冊も読み終え、ニンリルは満足そうな笑顔を浮かべました。
「あー、面白かった! 最後の一冊は、月家大当主アキナ様のエピソードがたくさん書いてあって、シルヴィーも楽しく読めると思うよ!」
「……どんなエピソード?」
「ええとね……」
試しに聞いてみたら、ニンリルはいくつかのエピソードを教えてくれました。シルヴィアは最後の一冊を手に取り、そのエピソードが書いてある箇所を探します。
すると。
「あ、最初のエピソードが二十七ページ目で、二つ目は五十三ページ目、三つ目は……」
「ちょ、ちょーっと待って! どこに書いてあるか覚えてるの!?」
「うん。だいたいだけど」
あ然とするとはこのことでした。聞けばニンリル、昔から本を読むのが早く、一度読んだら内容はもちろんどこに書いてあるかも覚えてしまうと言います。しかも一度覚えたらほとんど忘れないそうです。
「王国一の天才少女、なんて呼ばれるはずね。びっくりだわ」
部屋の扉がノックされました。シルヴィアが返事をすると、扉が静かに開きミズハが部屋に入ってきました。
「お目覚めでしたか。お食事の用意ができましたので、食堂へお越しください」
「ありがとう」
「おや?」
ミズハもニンリルの足元にある、台車に積まれた本を見て首を傾げました。
「通史全巻ですか。なかなかに欲張りですね。よろしければお貸ししましょうか?」
「あ、大丈夫です。全部読みましたから」
「……は?」
さすがのミズハも驚いたようです。シルヴィアが説明すると、ミズハは数度瞬きしてまじまじとニンリルを見つめました。
「つまりニンリル様は、小一時間でこれをすべて読破……いえ、暗記したということですか?」
「はい。とても面白くて一気に読んでしまいました」
知的好奇心が満たされ、ニンリルは上機嫌です。ミズハはあごに手を当て、ふむ、とうなずくと、積まれていた本の一冊を手に取りました。
「少し試させてください。この第三巻……百五十ページ目、四代目花家当主が国王あてに出した上申書の全文が載っていますが、内容は?」
「えーと、学校制度設立に関しての意見書ですよね」
そう言ってスラスラと暗唱したニンリル。書かれている内容と一言一句違いはありませんでした。
「すご……」
「これはこれは。驚きましたね」
ミズハは本を置くと、真剣な顔になりました。
「ニンリル様、覚えていられるのは本の内容だけですか? その気になれば、あらゆることを覚えていられるのではありませんか?」
「まあ、そうですね。記憶力はいい方だと思います」
記憶力がよいとか、そういうレベルの話だろうか。
シルヴィアがもはや何もいえずにいると、ミズハはなるほどとうなずきました。
「ニンリル様のその力、完全記憶能力と呼ばれるものでしょう」
「完全……記憶能力?」
「はい、殿下。これまでに見聞きしたことすべてを細大漏らさず記憶し思い出せるという、稀有な能力です」
「あー、はい。まあ、そうみたいですね」
ニンリルいわく、その記憶力の異常さに最初に気づいたのは、ニンリルが住む下町に居を構えていた老子爵、リョウゲツだそうです。
「検査とかは受けたことないですけど、子爵様が色々調べてくださって、たぶんそうだろう、て。せっかくの特技だから、それを活かして王立アカデミーを受験してみたらどうだ、て勧めてくれたんです」
そして見事合格し、王国史上最年少のアカデミー生が誕生したというわけです。
「特技というより、異能と呼んだほうがよさそうですね」
ミズハが軽く肩をすくめました。
「私も聞いたことはありましたが、まさかニンリル様がそうとは。おみそれしました」
「あ、いえ。覚えているというだけですから」
「いえいえ、たいした才能ですよ。ちなみにそのこと、風家当主のご婚約者、アウラ様はご存知でしょうか?」
「はい。十分の一でいいからわけてくれ、て泣きながらお願いされたことあります」
アカデミー補欠合格にして、先月行われた試験はほぼ全科目で追試だったというアウラ。風家当主の婚約者としての体面を保つためにも、なんとかして成績を上げたいと思ったのでしょう。
「そうですか。アウラ様がご存知なら、風家のご当主もご存知と考えてよいでしょうね」
ミズハは「うーむ」とうめいて目を閉じ、天井を仰ぎました。
「なるほど。風家がニンリル様を殿下の付き添いにと考えたわけです。これはしてやられましたかね」




