06 ハニートラップ
一方。
コレーと別れカフェを出た少年は、道端の露店を冷やかしながら、のんびりと帰宅しました。
王宮の西側にある、大きなお屋敷。そこが少年の家です。
お供も連れずに一人帰宅した少年を、老齢の門番が驚愕の表情で出迎えます。
「お坊っちゃま! 供も連れず一人とはどういうことです!」
「ああ、ごめんごめん、ちょっと一人で散歩したくて」
「勘弁してくださいませ。お坊ちゃまに何かあったら、我ら一同路頭に迷うのですよ!」
「ああもう。お坊ちゃまはやめてくれないかなぁ」
「いいえやめません。まだ十二歳の子供であること、この爺だけは言わせてもらいます!」
カンカンの門番に肩をすくめながら、「心に留めておくよ」と笑い、少年は屋敷に入りました。
玄関を入ったところで、一人の男が待っていました。
ツナギ姿がひどく似合わない、若い男。カフェで隣に座った、あの男でした。
「お邪魔しております、ノトス様」
「これはガダル殿。どうされました」
「供も連れずお一人でしたので。無事お戻りになられたのかと、懸念しておりました」
「これはご心配をおかけしました。このとおり、五体満足です」
ガダルの言葉に、少年──ノトスは無邪気に笑って答えました。
「ご用は、それだけですか?」
「いえ」
ノトスが静かな口調で尋ねると。
ガダルはためらうことなくその場に両膝をつき、両手をついて深々と一礼しました。
そう、土下座です。
「鳥家を代表し、兄が起こした不祥事について、お詫びに参りました」
「お詫びするのは私ではなく、陛下にでしょう」
「そちらへは、すでに父と母が向かっております」
「ならいいですよ。私は陛下の影。命じられた後始末をするのみです。どうぞお立ちください」
「寛大なお言葉、心より感謝します」
そう答えつつも立ち上がらないガダルに、ノトスは肩をすくめました。
「なんというか、これぞ典型、というハニートラップでしたね」
「はっ。我が兄ながら、情けないと思っております」
「おや、手厳しい」
王国科学院きっての天才と言われたベンヌ。
社交性に乏しく好きなものにのめりこむタイプでした。当然、女性との交際経験などなく、周到に用意されたハニートラップに見事にはまってしまったのです。
趣味の合う素敵な女性との出会い。それを運命と信じ、のめりこんだベンヌ。
そして、彼女に誘導されるままに、質問に答えるという形で、開発中の新型兵器の情報を漏らしていました。
風家がそれを察知したのは三ヶ月も前です。
即刻の処分が検討されましたが、相手は四大侯爵・鳥家の次男。ベンヌ本人も得難い人材であり、すぐには処分が決まりませんでした。
ですが、ベンヌは開発の中心人物で、最重要事項を知る者です。このままでは新型兵器の核心情報が他国へ漏れてしまいます。
粛清やむなし。
風家がその意見を上奏したのは十日前。当主の名での上奏は即座に決裁され、本日の決行となりました。
「まあ確かに、情けないと言えばそれまでですが」
ガルダの言葉に、ノトスは静かに笑います。
「鳥家のガードも甘かった。王国科学院のセキュリティ対策も含め、です。ベンヌ殿お一人に責任を押し付けては酷でしょう」
風家より、再三警告は出していたはずですよ、とノトスはつぶやくように言いました。
「……はっ。おっしゃる通りです。鳥家をあげて改善に取り組みます」
「お願いしますね。ああそれと」
恐縮しきりのガルダに、ノトスは柔らかい声で告げました。
「ハニートラップに引っかかった上での粛清。次男の死の理由がそれでは、鳥家としても面目が立たないでしょう。愛した女性との結婚を反対され、思い詰めての心中。そうなるよう取り計らっておりますので」
「は? そのようなことが、できるのですか?」
「花家に協力を依頼いたしました」
驚くガダルに、ノトスはにこやかな笑みを浮かべました。
「ご当主は快諾してくださいました。素敵な恋物語に仕立て上げると、張り切っていらっしゃいます。まあ、鳥家ご当主夫妻が悪者となりますが、そこはご甘受ください」
花家のご当主は文才のある方ですから、お任せしてよいかと。
そう告げたノトスに、ガダルは再び頭を下げました。
「重ね重ねのご配慮。何とお礼を申し上げてよいか」
「いいのです。私も……ベンヌ殿にはとても可愛がっていただきましたから」
機械いじりが好きなベンヌは、まだノトスが小さかった頃、色々なおもちゃを作ってはプレゼントしてくれました。どれもこれも市販品とは一味違う、とても凝った作りで、ノトスはとても嬉しかったのを覚えています。
人付き合いは苦手な人でした。でも、決して悪人ではなく、世渡りが下手なだけだったのです。
「ベンヌ殿は……ごく普通の家庭に生まれていれば、鳥家の保護を受け、立派な工学博士となったでしょうね。その才、惜しまれます」
「ありがたきお言葉。兄も浮かばれましょう」
さてどうかな、と思いましたが、ノトスは口には出しませんでした。
「申し訳ありません、私も少し疲れました。部屋に戻らさせていただきますね」
いつまでもひざまずいたままのガダルに別れを告げ、ノトスは自室へと引き上げました。
部屋に入り、扉を閉めた途端。
目の前にあった花瓶をつかみ、思い切り壁に叩きつけました。
ガチャン、と音を立てて、平民ならば三年は暮らしていける価値が粉々になりました。
音を聞いてすぐに侍女が駆け付けました。「すまん、八つ当たりをした」と詫びる当主に無言で一礼し、侍女は手早く片付けて立ち去りました。
「ハニートラップ、か」
なぜ、ああもたやすく騙されたのでしょうか。
天才と呼ばれたベンヌの不甲斐なさに、腹が立って仕方ありませんでした。それゆえ、一体どんな女がベンヌを騙したのか確認しようと、周囲の反対を押し切り、ノトス自らコレーに接触したのです。
どこか儚げで、悲しい顔をした女でした。
庇護欲をそそられる、そんな女性です。スパイをするような女には見えませんでした。ハニートラップではなく、本当にベンヌを頼りにし、愛し合っているのではと思ったぐらいです。
ですが、そのなれそめの、あまりにも出来過ぎたストーリーを知り。
風家の名を聞いて青ざめた瞬間に、スパイであると確信しました。
彼女が本当に平民なら、風家の名にあれほど怯えることはないのです。
情報と謀略を一手に操る一族。
それはどこかオカルトめいた話として語られており、スパイ小説の題材にも散々に使われている、ネタの一つとなっています。
一般人は誰一人、それが本当だと思っていません。長い年月をかけて、そう思い込ませることに成功しているのです。当主の話が聞けるというなら、むしろ目を輝かせ食いつくのが普通でしょう。
それが真実だと知っているのは、この国の一部の貴族であり、一部の権力者であり、王国を侵さんと試みる他国の政府だけなのです。
「ふん、まあいい、カタはついた」
それにしても、どうしてこんなに疲れたのだろうか。
ノトスは不思議に思いながら、夕食まで少し眠ろうと、ベッドに身を投げ出し静かに目を閉じました。




