患者のこない整骨院 2
爽やかな秋晴れの朝が来ました。小鳥たちが木々の枝にとまりチュンチュンとさえずっています。
先生がいつものように医院に向かうと、病院の真ん前に何やら大きな黒いかたまりが転がっていました。
何だありゃ?と近づいてよくよく見ると、それは人で老婆でした。道を歩いていて転けたらしく、起き上がれない様子です。
「大丈夫ですか? お婆さん、転けたんですね立てますか?」
「おお、こりゃ通りがかりの親切な兄さん…ありがたや、ありがたや!天の助けかいのぉ」
大きな子供が三人もいる先生が兄さんなんて呼ばれるのも変な気がしましたが、この八十は過ぎているであろう老婆からすればまだまだヒョッコなのかもしれません。
見れば辺りに老婆のものと思われる手押し車がひっくり返っており、巾着袋や杖も転がっています。
先生はそれらの物を拾い集め、大きな身体ですばやく老婆を助け起こしました。
「どうです、歩けそうですか?」
「あっ、痛い! どうやら腰をひねったようじゃ、あいたたた…」
老婆は顔をしかめ、痛そうに腰に手をやります。
「あのね、お婆さん、じつはわたしはただの通りすがりの兄さんではないんですよ。この小松田医院の院長の小松田といいます。どれ、もう開院する時間です、ひとつ診てさしあげましょう」
診察すると、老婆は転けた拍子にすこし腰を痛めたようでした。しかし足を捻挫していなかったのでひと安心です。
骨がもろくなっているので歩けなくなると、すぐに寝たきりになってしまうこともあるからです。
「さぁ、お婆さん、終わりましたよ。しばらくはできるだけ出歩かずに腰ベルトをして、お家で安静に過ごしてください」
仕上げにペタっと腰に湿布を貼ると、
老婆はゆっくりと診察ベットから上体を起こし、先生に向かって手を合わせました。
「ああ、ありがたや、ありがたや。血圧の薬をもらおうと病院に行く途中で気をつけておったのに転けてしもうたら、転けたところが整骨院の前じゃったとは…どうやらわしも運が強いわい!
それもこれもご先祖さまが守ってくださっているおかげじゃ、こまった先生ありがとう」
「こまったじゃなくて、小松田です」
老婆は耳が遠いのかそこは無視して、手押し車を押して帰ろうとしましたが、フラフラとしてまた転けそうな危うい足どりです。
「ひゃっははは、先生すまんのう…それにしても楽チンで極楽、極楽じゃ!」
小松田先生は、老婆をおぶって住宅街を歩いていました。
ピタリと時間どおりに医院を開けるのが先生の日課になっていましたが、病院でじっと待っていても、どうせ患者は来ない確率のほうが高いのです。
それなら一時休診の札を掲げて、老婆を無事に家まで送り届けてあげてもいいと思ったからです。
「ほれ、そこを右、つぎは左、右右、左でまた右じゃ」
歩けなくても口は達者な婆さんに背中から言われるがままに、婆さんをおぶった大きな先生は、スタスタと大股で婆さんの家へと向かいます。
「それにしても、こんなに遠い道のりを、よく歩いてこれましたね! お婆さんひとりじゃ危ないですよ」
「そんなこといわれても、ひとり暮らしのわしに誰がついて来てくれるというんじゃ」
「息子さんか娘さんか…お孫さんとか」
「先生は何もわかっとらん!」
「いてっ?」
ゴツンといい音がしました。背後から老婆が握っていた杖で先生の頭をコツいたのです。
「いまの若いもんは、この不景気で自分たちのことだけで精一杯じゃ、わしらが舅、姑の面倒をみていた時代とは違ってきとる。わしら年寄りはできるだけ若いもんの負担にならないよう生きにゃならん。
これからの年寄りは自分の面倒ぐらいは自分でみるのが義理ってもんじゃ」
住宅街のいちばん奥に、お婆さんのお家はありました。
昔はたくさんの家族で暮らしていた面影のある、こじんまりとした建て売りの二階建て住宅です。
玄関ドアをくぐると、お婆さんは歩きづらい身体を引きずって、まずは居間にある仏壇へと向かいました。
お婆さんはしきりに手を合わせ、仏壇に向かって何やらブツブツとお経らしきものを唱えています。
『 観自在菩薩行深般若波羅蜜多時
かんじざいぼさつぎょうじんはんにゃはらみったじ
照見五蘊皆空
しょうけんごうんかいくう
度一切苦厄
どいっさいくやく
照見五蘊皆空
しょうけんごうんかいくう
度一切苦厄
どいっさいくやく
舎利子。
しゃりし
色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。
しきふいくう くうふいしき しきそくぜくう くうそくぜしき
……………………
…………
…… 』
先生は読経の声に心が洗われるようで、聞くともなしにぼんやりとお婆さんの唱えるお経の文句に耳を傾けていました。
見かけによらず信心深いようです。
先生は気長にお婆さんが拝み終わるまで待っていてあげました。
そもそも年寄りは仏壇をよく拝むものです。なぜならもうすぐお引越しする場所だから……。
「ささ、親切な先生、遠慮せずにどうぞ、たんとおあがりくださいな」
お経が終わると老婆はうやうやしく先生にお礼をいい、テーブルにお茶と山盛りのまんじゅうを出してくれました。
年寄りはだいたい甘い物が大好きです、自分が好きだから人にも出してもてなします。
じつは先生も甘い物が嫌いではありませんでした。
これだけ親切にしてあげたのだから、別に遠慮する必要もないと、先生はパクパクとまんじゅうを頬張りました。
「いつから、お一人暮らしなんですか?」
どうせあわてて医院に帰ってじっと待っていても、たぶん、おそらく、絶対に、患者は来そうにないのです。
先生はそれならと少しの間、この気丈にみえて孤独そうな老婆の話し相手をしてあげることにしました。