第三話 初めての町
町は壁で覆われていた。
俺はその門へと飛び込み、町へと入った。
門には番兵が槍を持っていたような気がしたが、特に引き止められることはなく、何か通行税だとかそういったものを支払うようにも言われることもなく、俺は門前広場で立ち止まると、息を整えた。
何のための門であり見張りなのかさっぱりわからないが、とにかく俺は不思議と整えるほども息が乱れていなかったので、歩き出した。
町並みは、中世ヨーロッパ風だった。
中世と言っても色々ある。俺が心に抱く中世の街並みとは、その中世と呼ばれる五百年間のどの年代なのかは知らないし、どの場所かもわからない。
アーサー王の時代かも知れないし、バイキングの時代かも知れない。ドイツのことかも知れないし、フランスのことかも知れない。あるいは長崎県佐世保市のことを思い浮かべているのかも知れない。
とにかく言えることは、中世ヨーロッパ風だということだ。それ以上でも以下でもない。
だが町を歩く人々の風体を見るに、やはり少なくとも長崎県ではない。
歩いているのはみんな白人のような人相風体だった。
正確には、コーカソイドの彫りを少しだけ浅くしたような顔立ちの人々。
そんな人たちが中世ヨーロッパめいた古めかしい服装で通りを行き交っていた。
歩き出してみたが、俺はどこへ向かっているのだろうか。
よくわからないうちにここへ飛び込んだはいいが、これからどうすればいいのだろう。
キョロキョロと見回している時、通行人にぶつかってしまった。俺は即座に頭を下げた。
「おっと、申し訳ない」
「ここはアルバランの町です」
俺はぶつかった相手を見た。
茶色の髪の、三十代ほどの年齢の男だ。
「え、今何て」
「ここはアルバランの町です」
「そうですか。教えてくれてありがとうございます」
「ここはアルバランの町です」
男は俺の目をじっと見つめてそう繰り返した。
俺は何と返事をすればいいのかわからず、ただまごついていた。すると男は歩き去っていった。
その背中を見送りながら、どういうことなのか考えた。だがわからなかったので俺も先へ進むことにした。
先ほど外で会った、馬車のおじさんを思い出した。
冒険者ギルドがどうのと言っていたのを思い出す。そこへ行けば、身分証明書をもらえるとか何とか。
冒険者ギルドとは何なのか、俺にはわからなかった。
ただ身分証明書をもらえるというのが気にかかった。
運転免許のようなものだろうか。あるいは、保険証。学生証か。
何にせよ、俺は持ち物が何一つなかった。
金もないのだ。
よく考えると、自分の名前もわからない。
ふと、馬車が二台はすれ違える広さの道路、その端に並んでいる商店のガラスが目に入った。
ガラスは、あるらしい。
そこには俺が写っていた。
黒い髪。
前髪は目元近くまで伸びている。
両耳の辺りの髪は、なぜかピンとはねていた。手ですいて戻そうとしてみたが、頑固な寝癖か髪質か、すぐにまたはねる。
顔を触ってみた。
やぶにらみの目つきを除けば、まるで見覚えのない顔だ。それなりにハンサムだった。瞳は中央が茶色、外周は緑。ヘイゼルというやつだ。
俺は思わず呟いた。
「髪だ……嘘だろう、髪がある……!」
前髪。
古代に失われた伝説のオーパーツが、俺の頭部の前面から垂れ下がっている!
しばらく頭を眺め、髪を手で引っ張ってみたり、思い直して優しく元に戻したりしたが、また歩き出した。
名前がないどころか自分の体にすら見覚えがない。
ここへ来る前の自分の名前を思い出してみる。
いや、やめよう。
思い出しても仕方がない気がした。
俺はもう、きっと別人なのだ。髪があるところを見ると、おそらくそうだ。ならば以前の名前など過去のものでしかない。
見知らぬ肉体でもって見知らぬ往来を歩く。
そうしながらも、本来であればもっと慌てるべきなのだろうと思った。
こんな状況なのだ。取り乱したりなんかもした方がいいのかも知れない。
そちらの方が自然だし、そうやって迷子になった男の子みたいに泣きわめいた方が、近くを通りかかった親切な誰かが、何だろうと思って助けに来てくれるかも知れない。
そして今俺の置かれている異様な状況がどういうことなのか、親切にも説明してくれる博識な人だとかが現れて、そっと俺の肩でも抱いてくれるかも知れない。ああ何てかわいそうに、さぞ戸惑っておいででしょう、でも安心して、別に髪型は崩れてませんよ。こんな具合にだ。
だがどうもそんな気になれない。
心のどこかで現実じゃないと思っているのだろうか。夢か何かと。
まあどちらでもいい。
俺は四十路の中年であり、もう男の子とは言えないし、これが夢であろうと現実であろうと、今俺という人間が対処の難しい事態に直面しているのは間違いない。
だがそれがどうだと言うのだろう?
そもそもトラックに轢かれる前からずっと困っていたのだ。
同じことだ。
穴の開いたスニーカーを買い換えることもできないほど人生が上手くいっていない俺なのだ。
いやいっそ、生まれた時から困っていた。生まれたということ自体がトラブルのようなものだった。
どうせ家族もいないし、責任のある仕事を任せられているわけでもない。
今さら異世界とやらに突然アブダクションされて、財布とスマホも忘れ、自分の肉体にも見覚えがなく、これからどうすればいいのか方向性すら見えないからといって、どこかに取り乱さなければならない要素があるだろうか?
とにかくわかっていることはだ。
ここは日本ではない。
エルフとかゴブリンだとかがいて、魔法がある。
俺はとても足が速く、力が強い。
以上。
それだけわかっていれば人生何とかなるだろう。
わかっていようとそうでなかろうと、どうせ何ともならないのが人生というやつなのだ。なら同じことだ。
考えがまとまったところで道を歩いていた老人を呼び止め、
「失礼。冒険者ギルドというのはどちらへ行けば?」
と尋ねた。
どうやらそこへ行けば身分証明書がもらえるらしい。
どういう理由で冒険者とかいう存在に身元の証明書を発行しているのかは知らないが、ものは試しだ。ダメならダメでいい。なぜ失敗を恐れる必要がある? 俺には髪があるのだ。
老人は答えた。
「この町の西へ行けば、ゴブリンの洞窟があるのですじゃ」
「はぁ、そうなんですか。それでご老人、冒険者ギルドは」
「この町の西へ行けば」
「冒険者ギルドがあるんですね?」
「ゴブリンの洞窟があるのですじゃ」
「いえあの、冒険者ギルド」
「この町の西へ行けば、ゴブリンの洞窟があるのですじゃ」
俺は押し黙った。老人はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて視線をそらして歩き去っていった。
やっとのことで冒険者ギルドにたどり着いたのは昼のことだった。
老人が去ったあと、手当たり次第に通行人に尋ねて回ったのだ。
武器屋がどうとか、天気がどうとか、魔王の軍勢が云々とか、一人一人そういったことを繰り返して喋るのを辛抱強く聞きながら、ついに冒険者ギルドについて話す人物に当たった頃には、太陽が高く登っていた。
ギルドの建物は三階建て。
入り口には弓と動物の頭蓋骨をあしらったシンボルマークが描かれた、看板がかかっていた。
看板には確かに冒険者ギルドと書いてある。
どこの国の言語かはさっぱりわからない。
だがなぜか「冒険者ギルド」と書いてあるように読めるのだ。決してアドベンチャーズギルドではないのが不思議だった。
俺は西部劇の映画にでてくるような、胸の辺りの高さまでしかない両開きの扉を押し開き、中に入った。
一階は広い。
ほんの少しの間、酒場と間違えたのかと思った。正面奥には、壁に酒棚、その手前にカウンター、それに備えつけられたスツール。
広いフロアの左には、丸テーブルが三つ。右にも三つ。
右の方の壁には掲示板がかけられていて、何かの書類がびっしりと貼られていた。ここには紙があるらしい。いいことだ。
ギルド、組合と言うが、酒場と兼用なのだろう。
それはいいのだが、俺が入った瞬間丸テーブルに座っていた男たちが一斉にこちらを振り返ったのは気まずかった。
彼らは一様に屈強で、革の鎧のようなものを着ていた。腰には剣だったり、ナイフだったりを吊り下げていて、大型の剣や槍などは壁に立てかけられていた。
真っ昼間からむさ苦しい男たちがジョッキを片手に仕事はどうしたのか、一斉にこちらを注視した。
しかも扉を開ける前には談笑する声が聞こえていたのに、俺が入った瞬間会話をやめたのもまたキマリが悪い。
「こんにちは」
俺は努めて平静をよそおい、そう言った。
男たちは何やら互いに顔を寄せ合っていた。
「おい……今あいつ、何て言った?」
「えっと……俺には“こんにちは”って聞こえたぜ」
「う、嘘だろ? 公共の場所に足を踏み入れて、わざわざ挨拶をしてくれるなんて……」
「見かけない顔だが、ただ者じゃなさそうだな……」
「ああ。礼儀正しいだけじゃねえ、自分から声をかけることで相手の出鼻をくじいた。一部の隙もねえ。見ろよ、ゴンザレスの奴を」
「あっちのテーブルに座ってるゴンザレスか?」
「奴はいつも新顔にはウザ絡みするのをかかさねえ男だ。だがそんなゴンザレスが椅子に釘付けだぜ。あんな挨拶をされたんじゃあ、絡むに絡めねえわな」
「すごい男だ。たった五文字でCランクのゴンザレスを金縛りだぜ!」
そんな声を尻目に、どうやらゴンザレスというらしい短いモヒカン刈りの男の横も通り抜け(何かじっとこちらを見ていたが)、右壁の奥へ向かった。
そこには酒場とは別にカウンターがあった。
受け付けと、天井から吊りさがった看板に書いてある。
若い女性がカウンターの向こうに座っていた。
あれが受付嬢なのだろう。
俺はカウンターへと向かった。