第二話 目覚める力
「ヒャッハー! 積荷をよこせー!」
「待てーハーレムー!」
林に沿う道を走り続けた。
なぜ俺は走っているのだろうか。
隣では馬車馬が俺と同じように息急き切っていた。
御者が目を見開いて、俺を見ている。
それもそうだろう。驚くはずだ。俺自身も驚いている。この状況にではない。スピードにだ。
俺は馬に並走しているのだ。
それどころか、徐々に引き離しかかっている。
かつて運動会で一度もヒーローになったことのない俺が、朝の道の疾走者の中で最も速いのだ。
ピコン。
そんな音がした。電子音だった。
どこからだろうかと辺りを見回したが、すぐにやめる。
外ではない。頭の中からした音なのだ。
続いて頭の中に文章が浮かぶ。文章が浮かんだような、そんな気がするのだ。
《ウルトラスプリントのスキルが解放されました》
道が下り坂に入った。
さらに加速。
眼前に左のカーブが迫ってくる。
そのまま突入した。馬車がイン、俺がアウトだ。
驚くべきことにアウト側の俺の方が速い。
カーブに突入した瞬間こそ馬車は俺に並んだが、俺はなぜか、自分でもどういうことかわからないが、まだ加速できるのだ。カーブの中で差が開き始めた。
瞬間御者が悲鳴をあげた。
反射的にそちらを見ると、馬車が傾いていた。
左カーブの遠心力で馬車は右に傾き、今や片輪で走行しているのだ。
「やれやれ」
俺はまたも反射的に、馬車に手をふれた。
またもや、ピコン。
《ザ・マッスルのスキルが解放されました》
遠心力で傾く馬車。
荷台からはガタゴトと音が聞こえてくる。
音から看てもかなりの重量物を満載しているのがわかる。
だが俺の手が感じている馬車の重さときたらどうだろう?
ビルの中の非常口、その鋼鉄のドアを押し開く程度の重さだった。
片手で押し返してやりながら走り続ける。
カーブを出た。直線に入った。
平原のはるか遠くに、空気に霞んで町のようなものが見える。
馬車の左車輪が音を立てて着地した。
本来ならここからが苦しい時間帯だ。一気にスピードが落ち、力の限り走っても、その力が抜けていく感覚が襲ってくる。
襲ってくるはずだ。
だがそう思えない。
まだ加速できる。
そう思った時だった。後方の声が聞こえた。
「あっ、兄貴! エルフが走ってますぜ!」
「えっ、あっ、ほんとだ!」
強盗たちの声だ。
少しだけ振り返ると、相変わらずエルフがシマウマを追うチーターよろしく俺を視線に捉え、風を巻いて砂埃を上げながら激走してくる。
強盗たちの、四頭の馬の横を走り、しっかり俺に追随しているのだ。
「すげぇ美少女だ!」
「ほんとだ、オレはもう見てるだけで胸が苦しい!」
「捕まえろ!」
「馬車なんかほっとこう! 奴隷にして売るんだ!」
物騒な言葉が聞こえた。奴隷。きっと有給休暇などないのだろう。世界中どこへ行ってもそんなことばかりだ。ここも何も変わらないらしい。
「性奴隷だ! 高く売れるぞぉ!」
その言葉に俺はもう一度振り返った。国連の職員に呼び止められたのかと思ったからだ。
エルフはちらりと強盗を睨んだ。
何か面倒臭そうな、歯牙にもかけていなさそうな目つきで睨んでいたが、ふいに顔がほころんだ。
それは往々にして、人が何かとても素晴らしいことを閃いた時にする表情だった。
同時にエルフは転倒した。
「あーれー、誰か助けてぇー!」
そう彼女が叫んだ。
「困ったなぁー、下品で下劣で性欲の強そうな、わるーい男の人たちに狙われちゃってるなー。私狙われちゃっているなー。ああどうすればいいのだろうー」
そんなようなことを言っているのが耳に入った。振り返ったせいでスピードが落ちる。俺は立ち止まりつつあった。
「あーあ、誰か助けてくれないかなー、もしもこのピンチを助けてくれる殿方があったならば、エルフの私の若い極上ボディを捧げることもやぶさかではないのだけれどなー!」
俺は視線を前方に戻した。
テロや犯罪から身を守る基本は、騒ぎの起こっていると想定される場所の、反対の方向へ走ることだ。
見に行ってはいけない。
興味を示してはいけない。
大きな音や、悲鳴なんかが聞こえたら、思考をやめて機械的に反対へ向かうことだ。それがシティーサバイバルの基本だ。
隣の馬車が急ブレーキをかけて止まった。ずいぶんと訓練された馬だ。御者が、
「いけなーい! おじさんが今イクぞー!」
好きにするといい。結構なことだ。俺が思うに、そのエルフは痴女で、性病か何か持っているかも知れない。あるいは持っていないかも知れない。
御者が馬車を飛び降りた。
アヒル座りで泣き真似しているエルフの元へ走っていく。
御者は丸腰のようだが、腕に覚えでもあるのだろうか。強盗はみんな帯剣しているようだが。
御者は言った。
「おじさんはまったく無力な一介の商人だ! 交易のために馬車に商品やら金貨袋やら満載してたら強盗に襲われた民間人で、冒険者ギルドに行けば身分証明書とか発行してもらえることを知っている、初対面の奴でもヒッチハイクさせちゃうタイプの親切なおじさんだが、お嬢ちゃんを助けに行くぞー!」
俺はついに足を止めた。
おじさんの心意気に胸を打たれたと言えば格好がつくかも知れないが、実際には妙なことに気づいたのが原因だ。
道の脇の草むらから、何かが飛び出したのが見えた。エルフのすぐ脇だ。
「あっ、ゴブリンだー!」
そう、ゴブリンだ。エルフや強盗に叫んでもらわなくてもそれは知っている。
緑色の小さなモンスターが、草むらから次々と飛び出してきた。
「ちくしょう、ゴブリンの巣穴だ!」
「くそう大変だ、エルフをかっさらわれちまう!」
「あらやだー! 私このままだと巣穴に引きずりこまれて、たくさんのゴブリンたちにメチャクチャのドログチャにされてしまうなー! そんな気がするなー! あー困ったなー!」
ゴブリンが飛び出した反対の側から、今度は野太い雄叫びが聞こえた。
そちらを見やると、身長が2メートル以上はありそうな大男が3人ほど、エルフたちの方へ走ってくる。
「あっ、オークだー!」
朝の運動会に新たな選手がエントリー。
それは緑色の肌をした、屈強なフィジカルエリート。
オークという奴だった。
オークは叫んだ。
「オレはオーク! 性欲は強いッ!」
「オレたちは強き仔を産める妻を探しているッ!」
「とか何とか言いながらたいてい関係ないところにも突っ込んでしまうッ!」
エルフも叫んだ。
「いやー、オークよー、あんなのに捕まってしまった場合想定され得るリスクは、子作りのための家畜とされ、何となればその巨大な生殖器により私の穴という穴は裂け……」
俺は再び走り出した。
山賊、醜い小人ども、理性のない超人バルクたちは一様に凶暴な光を瞳に宿し、手には刃物をギラつかせていたのだ。
暴力だ。
無法。
奴らは武器を持っている。
俺は憲法9条に祈りながら走った。
俺は丸腰だ。非武装だ。そんな人間を、ゴブリンが襲うはずがない。
俺はそう習った。学校でだ。学校の先生がそう言うんだから間違いない。
「あっちょっとハーレム! どこ行くのよー! 助けてよー! ねぇー!」
知ったことか。
戦うだなんていけないことだ。きっとあのエルフが襲われているのも、背中に弓なんていう兵器を背負っているせいなのだ。きっと強盗も、ゴブリンも、オークも、あのエルフが武装していて恐るべき殺傷能力を備えているからこそ、己の力を試すべくスポーマンシップに則って勝負を挑んでいるに違いないのだ。戦争はいつもそうやって始まるのだ。大日本帝國がアメリカに戦争を仕掛けたのだって、アメリカが軍隊なんか持っていたから悪いのだ。アメリカが軍隊なんか持っていなければ大日本帝國だって戦争なんてしなかった。だから大日本帝國は何も悪くないのだ。俺はリベラルなんだ。軍隊なんか持っている国は苦しんで死ねばいいのだ。平和に生きるためならば人は笑って死ぬべきなのだ。
俺はそう考えて走った。
後ろからは、哀れな少女が下劣な男たちに群がられている喧騒が聞こえてくる。
「触らないでよ!」
「痛っ! ちょ、やめ……」
「死ね!」
「ぐわ!」
「うわ、強い……」
「強き仔っていうかこいつが強いッ!」
「この汚らしい非転生者どもがぁ〜、私に触れようだなんて千年早いわ!」
「ぎゃあ、たすけ」
「お、お嬢ちゃん、おじさんは味方……」
「燃える夏の朝影まで燃え尽きろ! エルフ魔法、スモールタクティカルニュークリアボンバー!」
「ぎゃばらば!」
「ゴブー!」
「グエーッ!」
爆音と熱風が俺の背中を叩いた。疾走する俺を追い越して、強盗やゴブリン、オークが宙を舞っていく。砂埃もだ。
何と野蛮なのだろう。
俺はここが間違いなく異世界だということを確信した。
こんな暴力、中世以外の何物でもない。
俺は喧騒をはるかに振り切って、町へと飛び込んだ。