第一話 クレイジーサイコエルフ ※
あまりにしつこくつきまとわれる愛は、
時に面倒に感じる。
ありがたいとは思うがね。
−シェイクスピア−
人は誰しも性癖というものを持っている。
一般的に言われる性的な嗜好のことではない。
そいつの性根のことだ。
たとえば俺で言えば、考え込みやすい性格だとか。
それが持って生まれたものか、人生の体験によって無意識に身についたものかは知らない。
関係のない時に関係のない由無し事が頭に浮かび、集中できない時がある。
深い思考と言えばポジティブにも受け取れるが、要はただの雑念だ。
あの時もそうだった。
あの時あの瞬間雑念に支配されていたからこそ、今俺はここに立っている。
そしてこの場所に立っているという事実を、俺の深い雑念は受け取りかねていた。
俺は今、白い幹の木が乱立する林に立っていた。
まったく見覚えのない林だがそんなことは重要じゃなかった。
俺はつい5秒か6秒ほど前、アスファルトに寝ていたはずだった。
夜のことだった。
俺は決まりきったこととして、近所で日課のジョギングをやっていた。
そして決まりきったことのように考えごとをしていた。
何を考えていたんだったかは思い出せない。
思い出せないということはどうせ大したことではないのだろう。いずれにせよその後の衝撃が強すぎて全部吹き飛んでしまったのだ。
歩道を走っていた時脇道からトラックが飛び出してきて、轢かれた。
考えごとをしていたせいで一瞬気づくのが遅れ、あの時俺は車の下敷きになったのだ。
側頭部にタイヤが乗り上げて、首の骨が折れた音を聞いた。
この運転手はいつ俺の上からどいてくれるのだろうかと思ったことも覚えているし、目の前が真っ白に輝き、ああ、瞳孔が開いたのだと他人事のように考えたことも覚えている。
その白い光の向こうから誰かが走ってきたのだ。
奇妙なものだった。
あの時俺はアスファルトにへばりつき、トラックの下にいたはずだった。
だがそいつ……その女は、頭と足の方向が俺と一致していた。
俺の頭の高さに女の頭があり、俺の足の低さに女の足があった。
俺は地面に倒れていたはずなのに、彼女はまるで壁に寄りかかっている人間に壁沿いに近づくように走ってきたのだ。
白く薄い生地の、ワンピースドレスの女だった。
『たいへーん! なんでこの人くたばってるのよぉ! 予定にないのに……』
しかしそこで女はペロリと舌を出し、そして斜に構え仁王立ちして俺を指差して、
『し、仕方ないわねっ! 女神権限で異世界に転生させてあげるわ! そ、それで許しなさいよねっ!』
彼女はそう、高周波めいたえらく甲高い声で言った。
その直後、女神らしき人物も見えなくなるほど眩い光に覆われた。
というわけで俺は異世界の林に突っ立っていた。
小鳥が忙しく飛び回り、さえずっている。
時間は……たぶん早朝だろう。木漏れ日が薄靄を照らし、林は全体が白く暖かく滲んでいた。早朝とはだいたいそんなものだ。
5秒か6秒ほど前は夜だったはずだ。
アスファルトに寝ていたはずだった。
だが今俺は朝の土の上に直立している。
死んだのではなく気絶していたという可能性もある。
深夜のことだったのだ。狼狽したトラック運転手が轢き逃げの証拠隠滅のために俺を林に捨てたということも……。
首をさすってみたが、何の異常もない。
まったくダメージがないのはさすがにおかしかった。
いや、気絶して捨てられたというのなら、俺はいつ、どうやって立ち上がったのか?
反射的に左の尻ポケットに手をやる。
正確な時間を確認したかったのだが、スマートフォンがないことに気づいた。スマホと共に行くわけにはいかないらしい。
というより尻ポケットがない。
考えてみればそうだった。
俺はジャージを着てジョギングをしていたのだった。
ジーンズなどを履いている時は右に財布、左にスマホと決めていたが、ジョギングに行く際にはどちらも持ち歩いていなかったのだった。
念のため右の尻にも触ってみた。ずいぶん張りのある尻がそこにあるだけで、やはり財布もなかった。
しかしずいぶん張りのある尻だ。
自分の手を見てみた。手の甲は、生前のようにむくんでいなかった。
肌が若い。
自分の手なのに見覚えがない。
顔にも触れたが、やはり張りがある。
今俺は、何歳なのだろうか? 自撮りして確認しようと思って反射的に左の尻ポケットに……ため息をついた。
神は転生と言ったが、0歳からやり直すという意味ではないのだろうか。視界の高さ、自分の足の大きさを看るに、子供ではない。
というか、靴が妙に窮屈だ。
履きなれたジョギングシューズ、履き慣れすぎて穴すら空いていたいつものスニーカーだが、なぜかサイズが合っていない。
ジャージの丈も短くなっていた。脛の半ばほどまで露出している。
白いタンクトップも事故の時のままだが、やはり少し窮屈に感じる。
あたりに人はいない。俺だけだ。それを確認して、少しズボンとパンツを下ろして己自身を確認してみる。
毛は生えている年齢だ。
それより驚くべきことは、皮が剥けているということだ。
我ながら、絵に描いたような完璧なフォルムに見えた。
ズボンを履き直すと、ため息をついた。
まさか女神はあの後、着の身着のままで俺をこの林に送り込んだのだろうか。
いやこの際問題なのはそこではない。
この体、俺の体ではない。
隣りに立っている木の幹を眺める。
俺の背はこれほど高くはなかったように思う。
腕を見れば前腕も長く、下半身を見れば足も長く、股間を見ればそこも長く、形式にも馴染みがない。
どこだか知らない林に馴染みのないボディを携えて降臨したはいいが、これからどうすればいいのだろう?
自分の居場所がわからない。
神は俺が死んだことを手違いであったかのように話していた。
そのためここへ送り込んだということなのだろうが、その後の説明もない。
いつもそうだ。
神は何かを始めるが、いつだって責任を取った試しがない。欧米ですら若者の宗教離れが進んでいるそうだが、自業自得というものだ。
とりとめのない思考をとりとめることに努めるため、しばらくぼんやりと立っていた。
林の中を眺め回した。
前世で(そう、前世だ、転生したというからにはそう表現する必要があるだろう)よく人から評された、悪い目つきで。
すると林の向こうに人影が見えた。
遠くで俺の視界を右から左へ、横切るように歩いていたが、こちらを振り向いた。
俺に気づいたらしい。こちらへ歩いてくる。
ブロンドの、見た目のずいぶんと優れた少女だった。
白人の女などテレビかネットの動画像でしか見たことがない。
俺にとってそれは、実在の疑われる架空の存在に近かった。
俺の家の近所に住んでいたのは、東欧だかスラブだかの髪を短く刈り込んだ身長が俺の二倍はありそうな屈強な肉体労働者か、東南アジア人だけだ。
いや嘘だ。よく考えれば中学校の英語の外国人教師は女性だった。
長い髪がマントにかかり、そのマントの下は体のラインを強調するようなぴったりとした、黒い衣服。短いスカートから、白い太ももが伸びている。
腰には剣らしきものを吊り下げ、背には弓を背負って……長くとがった耳をしていた。
エルフだ。
エルフというやつだ。
英語教師ではない。英語教師はアメリカか、カナダか、オーストラリアかも知れないが、とにかくそういうところからやってくる。
だがエルフは北欧の神話の登場人物だ。
自然を愛し、理想高く、高潔で、たぶん油田とかも所有している。
そんな北欧めいたエルフ少女は、まっすぐ俺のところまで歩いてきて、俺の前で立ち止まると、言った。
「好きですファックしてください」
「まず君は誰だ」
やはりここは異世界のようだ。
挨拶代わりにファックミーなんて北欧人なら言わないだろう。そういうことを言うのは、アメリカか、カナダか、オーストラリアかも知れないが、とにかく目の前の少女はれっきとした北欧人ではないことがわかった。
そういえば今思い出したが中学の英語教師はイギリス人だった。
「早く!」
少女は両手を広げて、何かハグを求めるような素振りをした。
「いや、なぜ」
「だってあなたは転生者でしょう?」
「なぜそんなことがわかる」
「私、転生者を探していたの。転生者はたいてい森に現れるから、だから私朝もはよからこうやって探し回ってたのよ」
「何のために……」
「もちろんファックするためよ」
「そんなことして何になる」
少女は俺に近づいて、ジャージを引っつかんでずり下げようとしてきた。
何という強引さだろうか。
「おいよせ、やめてくれ」
「早く脱ぐのよ。着たままではハーレムは作れないわ」
「そんなことはない。君はハーレムを勘違いしているんだ」
俺は彼女の手を振り払い走り出した。
「待てハーレム! 逃がさないわよ!」
転生した日本人はどこか別の世界で、新たな名前を得て人生をやり直すと聞いたことがある。
もちろん風の噂でだ。しかし俺のここでの名前はハーレムということになっているのだろうか。いやきっとそうではないだろう。でないと、初対面のエルフが俺の名を知っている理由の説明がつかない。
エルフは追ってきた。
走りながら振り返ってみると、目を血走らせて追いすがってくる。
「助けてくれぇ! 誰か!」
俺は叫びながら走った。いつしか林は途切れ、土をならした道のようなところへ出た。
林に沿って伸びる道の左の方から、馬車が走ってくる。
すごい勢いだ。
「おおい、助けてくれ、変質者に襲われてるんだ!」
俺は道に出て馬車の前に立ちはだかり、両手を振ってよびかけた。
その時、御者の顔が見えた。
何か、俺に勝るとも劣らない決死の形相で馬を鞭打っている。
様子がおかしい。
馬車の後ろにも馬が見える。
育ちの悪そうな男が複数、馬を走らせ馬車に追走しているのだ。
馬車の後ろのカウボーイたちが叫んだ。
「ヒャッハー!」
強盗だ。
俺は直感した。ヒャッハーと叫んだのだ。他にどんな可能性がある?
振り返るとエルフが林から飛び出したところだった。俺は右へ走り出した。
俺、馬車、エルフ、強盗たちの順で異世界の平原を疾走する。
その先に何が待っているかはわからない。
俺たちの中の誰もそれを知らないし、あるいは知っている者もあるのかも知れない。
俺たちはその行き着く先だとか、そこに待ち受ける結果を受け入れることもできるし、そうしないこともできる。
いずれにせよ、俺たちは走り出したのだ。