第九十二話 入玉
(みんなが見ている。ここでは、負けたくないし、負けられない)
おれは、盤上を見ながら、ひたすらに考える。
今回、おれはあえて得意戦法の「角換わり」を封印した。これはおれの作戦だった。
おれは、どちらかというと序盤型の将棋だ。序盤戦術を研究しておき、勝ちやすい型に相手を誘導するのだ。終盤の力が少し弱いおれにとっては、序盤という得意技を磨くことに特化している。桂太にも、部長にも四間飛車以外の戦法では作戦勝ちに持ち込める。そう自信があった。
そして、序盤研究をおこないやすい戦法が3つある。ひとつは、いままでの得意戦法「角換わり」。これは40手近くまで定跡化されているので、その後も研究しやすい。もうひとつは、「角交換振り飛車」。序盤に角交換してしまうことで、相手の乱戦を封じ込めることができて、逆にポイントを稼ぎやすいのだ。
そして、最後のひとつがいま戦っている「横歩取り」だ。これは、かなり力勝負になりやすいが、トラップを作りやすい戦法でもある。気がつけば、いきなり王手飛車取りがかかっていたり、飛車とほかの駒が交換させられる作戦だったりする。相手のミスがあれば、20手程度で勝敗が決まる変化すらある。禁断のスリル満点だ。おれはこの横歩取り研究に1年間費やした。
そして、相手は全国大会常連の強豪。相手にとって不足なし。おれは、切り札を抜いた。
※
50手ほど手が進む。おれの隙のない陣形に相手は攻めあぐいて、おれが優勢な局面だ。相手が空中戦に持ち込もうとした戦術を完全に押しこんでいた。あいてのさせたいことをさせずに、一気に押しつぶす。「好位圧倒」。序盤研究で優位な位置を確保し、盤面で圧殺する。おれの理想とした戦い方だった。
うつむきながら、涙目になっている北さんをみておれは勝利を確信する。
「もらった」
しかし、どう考えても絶望の状況の北さんはその後で笑ったのだ。それは不気味な笑顔だった。
そして、王と金銀、歩がスクラムを組んで前進をはじめる。
「まさか……」
入玉
言葉のままの意味だ。王が自ら敵陣に向かって前進するのだ。これは将棋の駒の特徴をうまくつかんだ戦い方だ。
将棋の駒の最大の弱点。それは、後方への攻撃方法がかなり限定されるということ。つまり、戦場を中央突破し、相手陣地に入ってしまえば、王を詰ませることは不可能に近くなる。この状況で勝つためにはたしかにこれしかない。でも、それをするとは……
全国クラスの強豪の勝ちへの執念をあなどっていた。おれは、王の護衛をにがさないようにと総力戦をしかけた。
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用語解説
入玉……
王が相手の陣地に突入すること。これが成功すると、詰ませることがかなり難しくなる。入玉が最強の囲いという迷言すらあるほど堅い。




