第九話 部活
昨日はいろんなことがあった。
というよりも、春休みが激動すぎて、まるでずっとエイプリルフールが続いているみたいな感覚になる。
「おい、桂太。桂太ってば……」
「ああ、わりい。考え事していた」
「しっかりしろよ~」
おれは、部室で将棋を指していたのだ。
久しぶりの部活だった。おれは、少し早めに部室に着いたので、先についていた友だちと練習将棋をはじめた。
「よしくらえ、一手損角換わり!」
こいつは、丸内文人。おれの同級生で、親友だ。
実力は、アマチュア二段。
序盤に角を交換する将棋を好み、その専門家として部内では一目おかれている。
序盤に角交換をする将棋は、非常にバランスを取るのが難しくて、独特な感覚を必要とする。こいつは、そのバランスを取るのが非常にうまい。
文人が採用した戦法は、「一手損角換わり」
最速で、後手から角交換する戦法だ。
本来なら、損するタブーを犯す一手。一手遅くなってしまい、いわば一手パスする作戦だ。昭和の時代では、破門されるほどの悪手とされていた一手をあえて指す戦い方。
その禁忌を犯して、こいつは大丈夫なのかと思うだろう。
しかし、これこそが作戦だ。戦法として成立している。
近年、そのタブーが見直されてきたのだ。
おれたちは、そのまま駒を進めていく。
そして、局面が完成した。
前後でほとんど同じ場所に駒がいるのがわかるだろう。
これは、「相腰掛銀」と呼ばれる形だ。お互いの銀が盤の中心付近に陣取り、駒の連結がよい陣形となって、バランスが取れている。
上下対称の美しい形。しかし、ひとつだけ違うところがある。
飛車の前の歩の位置だ。
先手は、歩が前に出過ぎているが、後手は一手パスしたことで歩がそこには達していない。
それによって、後ろの桂馬の動きが制限されないのだ。
あえて、一手損することで、後手は理想的な陣形を作り出し、相手にはやや不利な陣形を強要する。専門家しか採用できない高等戦術だ。見よう見まねでまねをしようとすると簡単に崩壊する。
「勝負あったかな、桂太?」
文人は自信満々な顔になっていた。たしかに、あいつの陣地は理想的な形になっている。
だが……。
「文人、まだ、序盤だぜ?」
そう言っておれは、定跡をはずれてあえて自分の陣地に隙をつくった……。
※
理論上は、おれが不利なのである。そう理論上は……。
しかし、これは実戦なのだ。理論は、あくまで理論でしかない。
「乗ってやるぜ、桂太」
文人は軍勢は、攻撃に転じた……。
定跡が崩れた後に、大乱戦となるのはいつものことだ。今回の場合は、相手のほうが陣形が良いので、おれが不利。そこで隙を作ったのだから、相手の攻撃がおれの王に殺到してくる。
これが狙いだ。
文人は、定跡に詳しくて、とても勉強熱心だ。まじめな優等生ともいえる。
だが、そのせいで、こんな不良的な大乱戦は苦手なのだ。
そこを突く。おれは、得意な粘りで、少しずつ盤上を乱し続けた。
隙を見つけては、カウンターでけん制し、少しずつポイントを稼ぐ。
いつの間にか、おれが逆転していた。
盤上は、駒が散らかって、さきほどの美しい局面のおもかげはもう存在しない。
「お、おかしい」
文人は、もうできることがなかった。おれの防御陣をなんとか突破したが、攻めることができる駒は壊滅していた。
「負けました」
文人は、悔しそうにそう告げた。
おれは、なんとか勝つことができた。
「ブラボオおおおおおお」
後ろから、大きな歓声があがった。
おれがふりかえると、そこにはショートヘアの女子がニコニコ笑顔で立っていた。
「ぶ、部長っ!?」
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人物紹介
丸内文人
高校2年生、男。桂太の親友でアマチュア二段。学級委員などを務める優等生。
序盤から角交換を積極的に仕掛けるタイプで、角換わり戦法の専門家。バランス感覚がとても良い。裏芸で、ゴキゲン中飛車や角交換四間飛車をさしこなす。
優等生故に、定跡形に圧倒的な強さを誇る一方で、乱戦に弱い。
序盤型で、終盤力が課題。
用語解説
一手損角換わり
あえて、後手側から角を交換し、一手パスする戦法。
相手に先行させるリスクはあるが、後手は理想的な陣形を作ることでそれをカバーする。
腰掛銀
図2のように、銀を盤の中心部に持ってくる戦法。
攻守ともにバランスが良く、柔軟性が高いため、プロが良く使う戦法。
定跡が細かく整備されており、下手な変化を選択すると詰みまで一直線。
「達人同士の居合切り勝負」などと呼ばれることもある。