第八十一話 王手
「これは、木島王龍が厳しいかもな」
「そうですね」
おれたちは、名人の王手に絶望的な気持ちとなった。王の周囲には護衛がなく、飛車と角が王の命を狙っている。どう見たって絶対絶命である。おれだったら間違いなく投了を選択してしまう危険な局面だ。さらに、相手は最強の終盤力をもつあの名人だ。奇術師ともマジックとも言われるその切れ味は、絶望的な状況を作り出していた。
しかし、王龍の目はまだあきらめていなかった。ひたすらに頭を抱えて、膨大な思考のなかに没入している。その頭の中では無数の選択肢が消えては生まれているのだろう。コメントは極端に減って、その姿を息をのんで見つめている。
彼は、駒台の駒をひとつ持つと、そこしかないという場所に打ちこむ。最弱の駒である「歩」をそこに……
「これは、妙手ですね」
解説の飯野田八段はうなった。なんでもない受けに見えるが、これが絶妙な一手のようだ。八段はひたすらに詰む手順を見つけようと解説をするが、結局はすべてに逃げる手順があった。木島王龍の完璧な凌ぎ方だった。
「ギリギリのところで、受けが成立しています。他の受け方や逃げ方をしていたら、確実に詰んでいるか、大劣勢ですね。ここには、この受けしかないのでは? まさか、名人の奇術をこんな手で無効化してしまうなんて…… いやいや、驚きですね。正規の名勝負だと思います」
最弱の駒が、大賢者のマジックを完全に受け止めていた。
吹けば飛ぶような歩が、岩のような頑丈な固さを作り出していた。
ギリギリのところで、名人の魔術は、王龍の急所を外してしまっていたのだ。
数手だけ、ふたりは手を進めた。
しかし、名人の手にはもう力が残されていなかった。
対局者はもうすべてわかっているような顔つきだった。
「負けました」
名人は静かにそう言った。その所作がとても神秘的なものに思えた。
「これにて、木島王龍は、王龍戦を5連覇となりました。「永世王龍」位の獲得となりました」
動画の画面は、コメントで埋め尽くされていた。すごい場面を生で見てしまった。おれたちは、無言でその場面を見つめていた。
別次元の世界の将棋をみてしまったからだ。そこにあるのは、恐怖と称賛。矛盾するふたつの感情がおれたちを包んでいた。プロの将棋を見ているとどこかに嫉妬を感じてしまう。だって、おれたちはこんな次元の勝負ができないから。
「兄さん、しませんか?」
「えっ?」
「兄さん? わたしたちも、将棋、しませんか?」
「うん、いいよ」
やっぱり、将棋だよな……




