第七話 カレーと詰将棋
「じゃあ、私ご飯作ってきますね」
そう言って、かな恵さんは台所に消えていった。
「なにか手伝おうか?」と言ったものの、「お昼のお返しです」と言って断られた。
台所からまな板と包丁のリズミカルな音が聞こえてくる。
まさか、料理が超絶下手なお約束展開を少しだけ期待したが、どうやらそれはないらしい。
調味料の場所もすでに教えていたので、手際よく調理しているようだ。
妹が作ってくれる料理。なんと甘美な響きだろう。想像しただけで、頭がお花畑になってしまう。
「しかし、暇だな」
料理を手伝うわけでもないので、完全に暇だ。テレビも、夕方のニュースしかやっていない。
「詰将棋でも解くか」
おれは、スマホを起動させた。
「詰将棋」
将棋が好きな人は、知っているだろうが、やったことがないひとはピンとこないだろう。
簡単に言えば、将棋を使ったパズルゲームだ。
相手の王様をどうやって倒すのか。自分の駒をどう使えば、相手の王様の逃げ道をなくすことができるか考えるゲームだ。
単なるパズルゲームだと思うことなかれ。これは、プロでもおこなう将棋の練習の王道だ。
将棋の基礎体力をつけるためには、必須だと言われている。将棋の力をあげるのは、最終的には詰将棋しかないと公言しているプロだっている。
アマチュアからプロ編入に成功した(歴史上3人しかいない)ひとは、仕事の合間に毎日600問以上解いていたとブログに書いていた。
それを読んで、おれも毎日解いている。
これがなかなか奥が深いのだ。
一番簡単なものは、最初の一手だけ示せれば勝てるものなのだが、歴史上最長のものは1525手示さなくてはいけない。
江戸時代に作られた名作詰将棋でも、手順が100手を超えているものも多く、コンピュータがない時代に、そういうものを作っていた人がいるのは驚きだ。
例えば、こんな感じ。江戸時代最高傑作のひとつと言われる『将棋図巧』第99番「煙詰」だ。
このえげつない感じが、117手後には……
こうなっているらしい。らしいというのは、おれが解けたことがないからだ。
今の将棋は、どんどん技術革新が進んでいる。プロ棋士が人工知能に敗れたり、AIが画期的な定跡をみつけたりもしている。
1525手の詰将棋も、コンピュータが5分で完答できるらしい。
プロでは、コンピュータとどう接していいのかという問題も生み出してしまった。
ただ、アマチュアにはコンピュータの発展が嬉しい効果を生んでいる。
なぜなら、家でプロ並みの棋力をもつコンピュータに手軽に教えてもらったり、自分がどこで悪い手を指してしまったのかを的確に示してくれる。
また、インターネット上にはプロからアマチュア強豪の棋譜がそこら中に転がっている。
昔では考えられないほどの環境が今は整備されている。だから、おれはこの環境をフル活用することにしている。
今スマホで開いたアプリは、将棋愛好家が創作した詰将棋を持ち寄って作られた問題集サイトだ。
おれは新作を頭から解いていく……。
「できましたよ~。あっ、将棋の勉強中でしたか?」
かな恵さんがそう言って、夕食を持ってきてくれた。父さんたちはどうやら遅くなるらしい。昨日の引っ越しで有休を使ったせいで、仕事がたまってしまったようだ。
「大丈夫、大丈夫。単なる暇つぶしだからさ。おいしそうだね」
まさか、妹の手料理を味わえる日が来るなんて(以下同)
食卓には、カレーとツナサラダが並ぶ。スパイスのにおいが食欲を刺激した。おれは、以前将棋のイベントで、森田永世名人を囲うカレーパーティーに参加したくらいカレー好きだった。
まずは、カレーをいただく。
かな恵さんのカレーは、辛さよりコクを重視するみたいだ。ここちよい味わいが口に広がる。
「どう、ですか?」
彼女は心配そうな顔で、こちらをのぞきこんだ。
「すごくおいしいよ」
「よかった~」
顔をほころばせて、彼女もカレーを食べ始めた。
「桂太さんって、カレーに何か隠し味いれる派ですか?」
「そうだな~。気分次第で、しょうがとかにんにくとか入れるかな?」
「いいですね。それも美味しそう。じゃあ、問題です。今日のカレーの隠し味はなんでしょうか?」
「えっムズカシイ」
「単なるお遊びですよ」
「じゃあ、チョコレートとか?」
「ぶー」
「生クリーム?」
「冷蔵にありました?」
「ありません」
「でしょー。正解は、インスタントコーヒーです」
「コーヒーか。そういえば、海軍カレーとかでもよく使われている隠し味らしいね」
「それをニュースで見て、まねしちゃいました」
「コクが出ておいしいね。かな恵さんも料理は結構するの?」
「お母さんが仕事で、遅くなる時によく作っていました」
「へーそうなんだ。しっかりした妹になってお兄ちゃん嬉しいよ」
「まだ、お兄ちゃん歴2日じゃないですか」
「たしかに」
そんな会話をしつつ、夕食の時間は過ぎていった。
「そうだ。食べ終わったら、私の部屋でゲームで遊びませんか?」
「いいねー」
この選択肢が、新しい悲劇のはじまりだとは思いもよらずに……。