第四百六十四話 青春の思い出
次回、最終回です。
日付が変わったあたりで投稿予定です。
完結後、少しの充電期間を挟んで、番外編をはじめるので、そちらもよろしくお願い致しますm(__)m
持ち駒には、桂馬が三枚あった。
有名な格言を思いだす。
「三桂あって詰まぬことなし」
三枚桂馬があれば、敵玉を詰ますことはできるという意味の言葉。
例外は、たくさんある。むしろ、三枚の桂馬だけではどうしようもないことの方が多い。
でも、もしかしたら、この局面ならいけるかもしれない。
俺は1枚目の桂馬を打ちこんだ。これで、敵陣を威嚇する。
豊田さんは、一瞬だけ顔が歪んだ。さっきの手が意表を突くものだったという証拠。
後手ももう時間がなく、秒読みだ。
精密機械と呼ばれる豊田さんでも、本当の機械ではない。
リズムが崩れたら、人間同士の将棋になる。
受けか攻めか悩んでいるが、攻め合いを選択した。
それを見て俺は、二枚目の桂馬を打ちつけた。
※
「継桂か」
部長は、そう言ってうなづく。
桂馬の影響範囲に、もう一枚の桂馬を打ちこむこと。
この手筋は、波状攻撃が可能となり、意外なところから攻めが続きやすく、エアポケットになりやすい。
文人先輩は黙って手を読み続けている。高柳先生は、眉間にしわを寄せて、同じように考え続けている。
かな恵ちゃんは無言で、目をつぶって祈っている。私は、彼女の手を強く握った。
桂太先輩、すごいよ。あんなに強い人に、こんなに頑張るんだもん。そして、やっと戻ってきてくれた。
「かな恵ちゃんが、連れ戻してくれたんだね。本当の桂太先輩を」
「そう、だといいな」
彼女は泣きそうな顔で答えた。
「絶対にそうだよ。私ができなかったのに、すごいな、かな恵ちゃんは」
「ありがとう、葵ちゃん」
私たちは、彼の雄姿を見つめた。
※
「佐藤くんの継桂」
まったくの空白だった場所に、いつの間にか攻めが繋がった。ボクシングをしていたはずなのに、まったく死角になっている後方からパンチをもらってしまったような感覚だ。
金か銀をどちらか捨てなくてはいけない。そこから、考える。
捨てた後にもう一度、桂馬……
いや、だが……
まさか……
必至なのか?
床が崩れる音がした。
※
「おい、豊田政宗が固まったぞ」
「なんだよ、この連続桂馬打ち。ハイレベルすぎて、よくわかんねえぞ」
「詰んでるんじゃないのか、これ」
「「「「えっ」」」」
※
「嘘でしょ、振り解けないんじゃないのこの筋」
渋宮は震えた。
部員たちにも動揺が広がる。
マグネット盤を使ってみんなが検証する。しかし、振りほどく妙手は存在しない。
そして、佐藤桂太の王を詰ませる筋も存在しなかった。
「歴史が動くのか」
俺は、天を仰ぐ。同世代に対して、無敵を誇ったあの豊田が、ついに陥落する。それは、俺たち教育大付属校生にとっては、悲劇だが、もしかしたら、本人にとっては幸せなことなのかもしれない。
希望が生まれたのだから。
※
「負けました」
俺の対局者はしばらく固まった後、そう言った。
スタジアムからは、拍手とカメラのシャッター音に包まれる。色んなメディアがここに入っているのを思いだした。
100回やったら、99回負けるくらいの実力差があったのに、運よく1回を引いてしまった。
「お疲れ様。いい将棋だったよ」
伝説はそう言って笑った。
「ありがとうございます。ラッキーでした」
そっかと彼は笑う。負けたのに、さっぱりした表情だった。
「ひさしぶりに楽しい将棋だったなぁ。佐藤くんは?」
「俺も、すごく楽しかったです」
「また、指してくれるかな?」
「その時は、きっと指導対局ですね」
「そうなるように、がんばるよ。決勝、頑張ってね」
彼はすっと席を立つ。
そっか、決勝か。当たり前のことなのに、実感はなかった。
ただ、そこには、かな恵が待っている。
それがどうしようもなく嬉しかった。
会場を出ると、みんなが待っていた。
「おめでとう、桂太先輩」
「やったな、桂太」
「すごかったわよ、桂太くん」
かな恵以外の部員たちは俺を取り囲んで、褒めてくれた。
「みんな、ありがとう。かな恵は?」
「かな恵ちゃんは、決勝の相手がいると気をつかうだろうからって。それに、決勝は勝つつもりでやるから、桂太先輩を応援しないんだって」
葵ちゃんはそう言って苦笑いした。かな恵らしいな。
「でも、伝言はもらってます。"約束を守ってもらえて嬉しいです。おかえりない、佐藤桂太さん?"だそうですよ」
「ありがとう、葵ちゃん」
「じゃあ、私たちはここで。決勝まであと30分ありますからね。水分補給して、熱中症予防に、気をつけてくださいね~」
そう言って、みんなは席に戻っていく。
ただひとり。
部長を除いて。
「おめでとう、桂太くん。本当におめでとう」
「ありがとう、ございます」
沈黙が続いた。
「「あ、あの」」
また、気まずい沈黙が生まれる。
「桂太くんから、お願い。たぶん、私の言いたいことは同じだから」
「じゃ、じゃあ」
俺は決意を固めた。
「俺なりの答えを……」
「うん」
ちょうど廊下には誰もいなかった。
この広い会場で俺たちは二人きり。
「部長が、ううん、香先輩が、俺のことを好きだって言ってくれたこと、本当に嬉しかったです」
「うん」
「でも、ごめんなさい。他に好きな人がいるんです。だから、香先輩の気持ちには、答えられません」
「……知ってた、よ」
「えっ?」
「桂太くんが、かな恵ちゃんのことをどう思っているか、私は知っていたんだ。でも、諦めきれなくて、将棋みたいにどうにか逆転したくて、突っ走っちゃった。棋風に似合わないのにね」
「香先輩……」
「もし、桂太くんと決勝で戦えたら、もしかしたらひっくり返せるかもしれないと思っていたんだ。桂太くんと、もう一度だけ本気の将棋、指したかったな」
「……」
「そんなに悲しそうな顔しないで。もうすぐ、桂太くんの晴れ舞台なんだから」
「先輩」
「たとえ、私の恋心が実らなくても、私たちの関係は終わらない。私たちは、将棋でずっと繋がっているんだから」
「はい」
「泣かないの。泣きたいのは、私なんだよ」
「えっ?」
先輩は、俺の目頭ににハンカチを差し出す。そのピンクのハンカチは少しずつ湿っていった。
「今の私のこと、決勝が終わったら、忘れてね」
「かお……り……」
香先輩のハンカチを持っていた右手は、いつのまにか、俺の頭の後ろに来ていた。
優しく頭を包みこんだその手は、彼女の唇へと俺を誘った。
触れ合った唇は、お互いの体温を交換していく。
彼女から解放されると、潤んだ瞳で、彼女は言った。
「私、待っているから。大学に行っても、社会人になっても、あなたが私の前に現れてくれるのを、全力で将棋ができる日を、ずっとずっと、待っているからね」
先輩は、目に涙を浮かべながら、最後は全力で笑っていた。
※
桂太くんが、決勝に向かったのを確認して、葵ちゃんが私を迎えに来てくれた。
「部長? 頑張り過ぎじゃないですか? 辛かったらもっと甘えても……」
後輩の胸に、私は甘えた。
「ダメだよ、葵ちゃん。それじゃあ、私は、彼の強い師匠じゃ、いられなく、なっちゃう。憧れの部活の先輩じゃ……なく……う。それだけは、絶対に、絶対に、い・・・やだったんだよ」
私の青春は、残念ながら、大事な思い出になってしまった。




